粥見神社と「てんてん」

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2016年12月、2017年3月

 <粥見神社と粥見御薗>

 現在の粥見町でも、過去の粥見村でも中心に鎮座していたのが粥見神社である。もっとも、合祀以前は八雲八柱神社と称し、地元民からは「八王子さん」の名で呼び親しまれていた。延慶年間(1308-10)にはところどころへ産土神を勧請したことから、粥見村では総社と伝誦されてきた。北畠親房もこの神社を信心していたようで、祝詞があったと伝わるが、現物は確認されていないようである。

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 寛保四年(1744年)の祝詞には粥見下郷鎮守八王子と表記されており、文化十二年(1815年)の「粥見邑之図」(道専寺蔵)にも八王子と表記されている。脇には追分という文字も見えているが、ここは和歌山街道から和歌山別街道へ分岐する起点となっており、往時は賑やかな場所であったのではなかろうか。なお、八王子社については有間野神社で詳述しているため、ここでは繰り返さない。

 中世には伊勢神宮領の「粥見御薗」の存在が知られている。『太神宮諸雑事記』には、永承四年(1049年)六月の条に、「又同御粥見御園司時季ヲ殺害セル犯人。丹生出山住人紀重常。同常晴。為直等也。」と、粥見御薗司殺害の記録が残されていることから、粥見御薗司が置かれていた事が判る。

 これにより平安時代末頃には成立し、室町時代初めまで存続していた可能性が考えられているが、現在の粥見神社の場所が粥見御薗であったのかどうかは不明である。神郡(神宮領)の文字が文献で初めて見られるのは『日本書紀』で、伊勢国の神郡が明記されるのは『続日本紀』ある。

賜所過神郡及伊賀伊勢志摩国造等冠位(『日本書紀』持統天皇六年三月壬午条)

伊勢国
多気度会二郡少領已上者 聴連任三等已上親(『続日本紀』慶雲元年正月戊申条)

 伊勢神郡は神郡成立時に多気郡・度会郡が定められ、寛平年間(889-898)に飯野郡、天慶三年(940年)に員弁郡、応和二年(962年)に三重郡、天延元年(972年)頃に安濃郡、寛仁元年(1017年)に朝明郡、文治元年(1185年)に飯高郡が順次寄進された。

 これら8つの神郡を「神八郡」と称され、このうち神宮支配の強い多気郡、度会郡、飯野郡の3つを「神三郡」と称した。中世に入ると神宮の支配力は徐々に低下し、実質的支配は神三郡に限定されるようになる。しかしその神三郡も伊勢国司の北畠氏の台頭とともに神宮による支配は形骸化していった。

 粥見村が属す飯高郡が神郡に定められたのが、壇ノ浦で平家が滅亡し平安時代が終焉した時である。「粥見御薗」は神郡以前から存在した事が判るが、なぜ粥見だったのかは不明なものの、『神鳳抄』には粥見のほか、五箇山、坂奈井(阪内)、瀧野、大石など歴史にその名が残る地名がたくさん記載されている。

(神三郡:飯高郡)/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

勾御厨。各六石。六九十二月。 深長御厨。二石。六九十二月。 英太御厨。三石。六九十二月。 英太神田。一町。四石。 井村御厨。三石。六九十二月。 苐原田御厨。三石。 牟呂山神田。五斗。十二月。 深田御厨。五十丁。九十二月。 蛸道大蔵山御薗。一石五斗。 長峯御薗。二石一斗。 有重神田。二十丁一段半。五斗。十二月。 岸江御厨。三石。六九十二月。 光用御厨。五十七丁。各二石。六九十二月。 大墓御厨。一石五斗。六九十二月。 (蒭?)御厨。十五丁。一石。 深田新御薗。六斗。九十二月。 有失御厨。 高志御厨。六斗。六九十二月。 山村御薗。十丁。六斗。 若松御厨。八ケ里二十丁。三石。 縣御薗。一石。 堤御薗。五斗。六月。 久米御薗。二斗五升。 南黒田御厨。 岸江御厨。二十丁。一石。 五勾御薗。四十一丁。 寒河御薗。三石。 岩内御薗。八丁。五斗。 宗重神田。一石。六九十二月。 芝井御厨。七斗五升。

 迄是御贄上分沙汰分。

粥見御薗七丁三段百二十歩。 五箇山御薗。 眞弓御厨。 坂奈井御厨。五十丁。 松山御厨。百丁。 梅田御薗。一石五斗。十一丁。 若木御薗。二十丁。 光用名。二十一丁。 忠越御薗。六丁。 廣瀬御薗。 瀧野御厨。綿二十両。河北河南役。菓子御贄在之。六町。 岩蔵御厨。 平生御厨。 會田御厨。七十丁。 横北御厨。九十九丁七段。 大石御薗。九月御籾。 手丸御薗。二十七丁。 河南河北御厨。十一丁五段。 野田玉垣荒田。六十丁。 近吉御薗。二十丁。 本忠光。十五丁五段。 忠光名。八十丁。 光吉。二十三丁。 忠越新光吉。十二丁一段。 福木御厨。十三丁五段。 永方御厨。百二十丁四段九十歩。 春光新光吉。四丁二段。 正延永方。二丁四段。 薬丸得光名。十一丁九段餘。 得重。四丁五段。 春丸開田得光。三丁半。 久富名。三丁五段大。 永富。三十四丁。 成忠。三丁七段。 犬丸。七丁七段。 光富。九十二段三百歩。 成清。十五丁二段。 荒田河原。三段。 豊富安富。五丁二段。 武國。三十九段少。 友武。一丁五段。 山室吉光。七丁。 山室成武。一丁五段。 忠近。十二丁。 清成。十三丁。 瀧蔵御薗。 宮野。 開田。 清松。 田牧。二十丁。 忠近御薗。十丁六段。十三石。 手原御薗。 立野名神田。一丁。

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 近世の粥見は冒頭の「粥見邑之図」でも判るとおり、この地域の中心的な場所であった。傍らには粥見井尻遺跡や櫛田川対岸には立梅遺跡が遺っており、縄文時代から常に人が居住する実り豊かな土地であったことが想像される。

 当神社の創建は不詳なるものの、相当に古いことが想像される。明治41年になると、追分(現在地)に鎮座される八雲八柱神社に対して、西ノ宮の西宮神社・竜光谷の御霊神社(前年に合祀され御霊神社となっている)、生辺の八幡神社、中山の溝口神社、岡本の菅原神社、岩下の靇神社、前平の山神社、工津の山神社(以上粥見)、宮ノ谷の聖御前神社、中山の八雲神社、岡の八幡神社(以上向粥見)、神原の神原神社、西上山の金刀比羅神社(以上有間野)が合祀され、粥見神社と単称された。そのため、数多の祭神が祀られている。その柱数は実に38にも及ぶ。

建速須佐之男命(タテハヤスサノオ)  天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)

天之菩卑命(アメノホヒ)       天津日子根命(アマツヒコネ)
活津日子根命(イクツヒコネ)     熊野久須卑命(クマノクスヒ)
多紀理毘売命(タキリヒメ)      多岐都比売命(タギツヒメ)
市杵島比売命(イチキシマヒメ)    吉備大臣(キビダイジン)
大国御魂神(オホクニノミタマ)    品陀和気命(ホムダワケ)
大山津見命(オホヤマヅミ)      大雀命(オオササギ)
菅原道真(スガワラミチザネ)     桜大刀自命(サクラオオトジ)
火之迦具土命(ヒノカグツチ)     天津彦火邇邇芸命(アマツヒコホノニニギ)
天照大御神(アマテラス)       伊奘那岐神(イザナギ)
伊邪那美神(イザナミ)        国之常立神(クニノトコタチ)
日子穂々出見命(ヒコホホデミ)    鸕鷀葺不合命(ウガヤフキアエズ)
国之狭土神(クニノサヅチ)      豊雲野神(トヨクムヌ)
宇比知邇神(ウヒヂニ)        須比知邇神(スヒヂニ)
意冨斗能地神(オホトノヂ)      大斗乃弁神(オホトノベ)
淤母陀流神(オモダル)        阿夜訶志古泥神(アヤカシコネ)
弥都波能売神(ヤツハノメ)      金山毘古神(カナヤマヒコ)
宇迦之神魂神(ウガノミタマ)     猿田毘古神(サルタヒコ)
石長比売命(イワナガヒメ)      高靇大神(タカオカミ)

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<てんてん>

 粥見神社の大祭日は例年2月20日であったが、昭和32年より寒気を避けて4月10日に変更されたが、昭和52年からは4月の第一月曜日となり、現在は3月末の日曜日に固定されているようである。

 この祭日には「てんてんの獅子舞」神事が奉納される。神事の始まりは不詳だが、700年以上の歴史があるという。逆算すれば、鎌倉時代も後期に入った頃で、伊勢国司の北畠家ができる前の時代になる。ちょうど北畠親房が正応六年(1293年)に生まれている。

 神事は、二頭の獅子と正天狗一人、鼻欠け天狗と呼ばれる鬼の面をつけた四〜五人で行われ、天孫降臨を形象化した舞であると伝わる。鼻欠け天狗は先駆神、正天狗は導きの神である猿田彦大神、雄獅子(おんじん)は瓊瓊杵尊、雌獅子(めんじん)は木花開耶姫に擬せられる。

 向粥見が五ヶ谷村に属していた往時は、神社が鎮座する下村(下郷)地区と隣接する本郷地区とが協力して斎行していた。正天狗の面は共有で、鼻欠け天狗の面と雄獅子は下村で、雌獅子は本郷で所有し、神祭ではお互いに借り受けて獅子神楽を舞い、家内安全・無病息災・五穀豊穣を祈願したという。現在では粥見の上郷地区、向粥見地区、下郷地区が交代で奉納し、今年は珍しく有間野の神原から一人参加されていた。

 あいにくの雨模様で、式典は拝殿内で挙行され、階下の参拝者たちには神事の様子が見通せなく残念な思いであった。一通りの式典が終わり奉賛者が階段を降りてくると、いよいよ「てんてんの獅子舞」神事の始まりである。

 まずは、天照大神から遣わされた「はなかけ(先駆け)」がキツネやひょっとこの面を付けて降りてくる。「はなかけ」は地上が荒れて騒がしいために、天照大神の先駆けとして地上の様子を見に舞い降りてきた。

 しかし子供たちが扮する悪者に反抗され、そこかしこで小競り合いが続く。子供たちは隙あらば杉の葉っぱを放り投げて「さきがけ」を困らせる。

 その後、巫女姿の女児たちによる浦安の舞が奉納されるのだが、雨のため境内のステージは撤収され、拝殿内での奉納となった。

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 舞が奉納されると、おもむろに太鼓がテンポよく叩かれる。この太鼓は貞享三年(1686年)に作られたものだが、現在でも真新しい状態が維持され感心させられた。この時の太鼓のリズムが「て〜ん、て〜ん」と聞こえてきたことから「てんてん」と命名されたと説明がなされた。

 太鼓のリズムに合わせて天狗さんの猿田彦大神が荒ぶる者どもを鎮めるために天から降りてくるが、道中が長いので、途中で草鞋を履き替えたり居眠りをしたりしてゆっくりと降りてくる。

 天狗さんは例年大人が努めてきたが、今年は中学2年の高橋くんが担当した。中学生の正天狗は6年ぶりという。この日のために年明けから週1回の練習に励んできたようで、堂々とした天狗ぶりであった。

 地上に降り立つと祓い清めて、獅子の姿に擬した神様を手招きする。オンジンサン(雄獅子)とメンジンサン(雌獅子)は天狗さんの手招きでゆっくりと降りてくる。天狗さんと獅子は勇ましく舞い踊る。この時に関係者や見物人から「エンヤッサイ!」と掛け声がかかる。

 また、天狗さんが鼻をかんだ紙で頭を撫でてもらうと、今年一年を無病息災で過ごせると言い伝えられている。老人も子供もここぞとばかりに頭を垂れてご利益をいただく。

 天狗さんと獅子の勇壮な舞によって、悪い病気を流行らせたり災いを起こしたりする悪魔は退散していくと、天狗さんは神様を見送りする。そして役目を終えた天狗さんも社へと戻っていき、今年の「てんてん」は無事に奉納された。

 祭礼の最後は餅まきが行われるのだが、雨のため袋詰めにされた餅を一人ずつ配って終えた。

<参考>

『飯南町史』
『飯南郡史』

『立梅遺跡発掘調査報告書』

『日本書紀(下)』宇治谷孟

『続日本紀(上)』宇治谷孟

「粥見邑之図(複写)」道専寺
『群書類従 第一輯』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『神鳳抄』(阿波国文庫デジタルライブラリ)

神道・神社史料集成 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/district.html

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