霧山城跡

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2016年11月

 鳥居をくぐり、左折して霧山城登山口を目指す。井戸の上手から斜路を上がっていくと詰城跡にでる。
 館跡との比高差は80mあるので、曲輪跡に立つと眼下には北畠氏遺跡が広がり、景賞院跡と六田館跡が見える。六田館は東御所とも呼ばれ周囲には3mにも及ぶ大規模な堀が巡っている。

 詰城跡へ上がってみると祠があったのか、基台のような石が埋もれている。周囲の樹木が巨大に成長し見通は効かないが、往時は館を含め城下町全体を見通せたことだろう。西側には堀切や竪堀が設けられており、北西からの攻撃に対しての防御性を高めている。

 ここからは延々と尾根を登っていく。今では丸太の階段を設けてあるので登りやすいが、当時はなかなか大変な移動であったのだろうか。およそ1時間ほど登っていくと鐘突堂跡の看板が見えてきた。ここからの眺めは絶景だ。南側には局ケ岳がよく見える。美杉からは山を3つほど越えていかないと局ケ岳の麓にたどり着けないことがよくわかる。右へ視線をずらすと三峰山(みうねやま)の稜線がよく見える。この山は飯高町側からは高鉢山が立ちはだかり見ることはできない。
 局ケ岳の左下には美杉の道の駅が見える。道の駅から見えた平場は鐘突堂跡だったことが判った。さらにサイバーショットの最望遠で見ると遥か遠くの度会町の風力発電のブレードが見える。高さはおよそ100m、ブレード1枚の重さはおよそ8.5tで1基分の総重量は290tにも及ぶ巨大な風車だ。
 その手前には特徴的な山頂部の山があり、まさか烏岳が見えるのか?と疑問視していたが、自宅へ戻り国土地理院の地図を3D化して確認すると、奇跡的に鐘突堂跡から烏岳への直線上にある仁柿峠が谷間となっており、肉眼ではかすかに見通すことができる。ちょっとした感動であった。
 北側へまわると目の前に大洞山が広がりその右側には尼ケ岳、左側には倶留尊山(くろそやま)が見える。大洞山の手前には美杉町八知の集落の一部が見えている。こうして見ると、山はたくさんあるのに名前がつけられているのはごくわずかだということが判る。誰か詳細な山の名称マップなるものを作ってくれないか。

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 鐘突堂跡のすぐ北側には本丸跡があり、谷で隔てられている。細い尾根道を一旦下って再び上がると、霧山城の本丸跡に到着する。鐘突堂跡がある場所は南曲輪群で、本丸跡がある主郭部は北曲輪群という二つの曲輪群から構成されている。
 北曲輪群は標高560m、120m×30mの範囲には北東の矢倉跡と南西の本丸跡・米倉跡との2つの郭から構成されている。両郭とも土塁で固められ、矢倉跡の先の出丸との間には大きな堀切が設けられている。自然の地形をうまく利用し伊勢国司北畠氏の居城としては盤石の城造りとなっている。『美杉村史』には、高所にあって登ることが容易ではないので、平時は多気御所に住み、城は詰め城と位置付けられたのではないかと記されているが、それほど急峻で登るのが大変とも思えない。
 この城を築いたのは初代の伊勢国司北畠顕能の時代で、興国三年/康永元年(1342年)もしくは翌年と考えられている。北畠御所は興国三年/康永元年(1342年)に建てられているので、ほぼ同時に築城されたことが判る。
 顕能は延元元年/建武三年(1336年)、10歳の時に父・親房、次兄・顕信に従って伊勢へ下向し度会家行の援助で田丸城を築いた。2年後に伊勢守に叙任されたとみられ、玉丸(現田丸城址)に本拠を置いて伊勢経営を負った。
 しかし翌年から伊勢守護の高師秋から度重なる攻撃を受け、奮戦虚しく興国三年/康永元年(1342年)の八月に陥落し、一志郡多気の地へ退去の止む無きに至った。この時すぐに新たな拠点を構築したとみられている。
 美杉ふるさと資料館で北畠氏に関わる資料をいただいたり、地理や伝承を教えていただいた時に、顕能が伊勢国を色々巡った後にこの地の堅牢さに着目して築城されたという話しを聞いたが、そうではないと考える。
 北畠氏は村上源氏の流れを汲む公家の出であり、北畠宗家四世の親房までは都にて従事していた。後醍醐天皇の信任が篤く、建武の新政が始まると、長男顕家の奥州駐屯に随行した。
 足利高氏の京都占領に際して京へとって返し、伊勢国へ拠点を移している。この時、初めて顕能が随行していることから、顕能は都育ちのおぼっちゃまであったと考えられる。
 伊勢守叙任早々に戦いとなりそのまま敗走、顕能の正室が野呂隆俊の娘であることから、野呂氏の勧めで多気の地を選んだのではないかと推測する。
 野呂氏は文徳天皇(827-858)の皇子惟喬親王を祖とし、その子・兼実王が野呂氏を称して臣籍降下したのに始まるといわれているが、野呂隆俊は伊勢平氏の流れを汲む伊勢国飯高郡の豪族である。
 いずれにせよ現在の津市美杉町、松阪市飯南町・飯高町を中心に力のあった豪族であることに間違いはない。地方豪族が都人のために要害の地を厳選したという姿が眼に浮かぶ。
 多気は伊勢国と大和国を結ぶ伊勢本街道沿いにある交通の要所であると同時に、多気から外へ出る場合はどこを通っても峠を越えなければならない天然の要害である。
 さらに丹生俣からの杉峠と赤桶からの庄司峠の峠口には砦を、仁柿からの櫃坂峠と奥津からの飼坂峠には関所を、嬉野からの白口峠と下之川からの桜峠と八知からの比津峠の峠口には監所を置き、外郭としての機能を果たしていた。

 城下町には3500もの家々があり、城郭本体だけでなく、麓の城下町まで含めて、大要塞を形成していたとも解釈できる。
 このような堅牢な城が信長によって落城するのは、伊勢国司九世北畠具房の時代で天正四年(1576年)のことである。三瀬御所で八世具教が調略された旧臣によって暗殺され、田丸城で重臣たちが十世具意(後の織田信雄)にだまし討ちに遭い、その勢いで羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信らの軍勢が大挙し、多気城(霧山城)をはじめ、城下町も北畠氏も滅亡した。顕能が作り上げた伊勢国司北畠家の歴史は240年の歴史に幕を閉じた。今から440年も前の話しである。
 帰路は登ってきた道ではなく比津峠へ出る北側の山道を選んだ。ところがかなりの急勾配で久しぶりで下りで膝が笑った。距離だけを比較すると神社裏ルートの1.2kmに対して500mと圧倒的に短いが、勾配のきつさを考慮すると、よく考えた方がよい。しかも比津峠まで下りてもそこから神社までは3kmほどある。
 西向院までたどり着いた時にはもうヘトヘトで、その日の夕方からの北畠神社ライトアップまで車内で休息に専念した。

<参考>

『美杉村史 上』
勢陽五鈴遺響 3』安岡親毅
『三重の山城ベスト50を歩く』福井健二・竹田憲治・中井均

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