鉄中城跡

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2017年6月

 滝野城があったと伝わる高城山の尾根を東に下ると、杉や雑木に囲まれた開けた台地がある。標高は160mから180mほどの高台で、広さはおよそ3ヘクタール。そこにかつて鉄中城と呼ばれる砦があったと伝わる。
 伊勢国司八世具教が三瀬の館で殺害され、実弟である興福寺別当東門院主は還俗して具親と名乗り、旧臣を束ねてお家再興のため蜂起した。その時に急ごしらえで作られた砦に具親勢が籠城し信雄勢と戦った。滝野城跡同様に証拠となる明確な遺構はないが、代々この土地に住む人々に伝えられてきた。
 具親に関する資料は極めて少ないが、『伊勢国司記略』には詳細に記載されている。

 北畠具親は晴具卿の季子具教卿の弟なり。少き時より佛門に入り、興福寺別當東門院の主となり給ふ。しかるに天正四年國司一家滅亡の由を聞て大に憤り、ひそかに南都を去て伊賀國へたちこえ、長木の吉原方にしばらく旅宿しておはしたる内に、還俗して、北畠宮内少輔具親と名乗り、近江の佐々木承禎が女を妻とし給ふ。しのび/\に三瀬、川股の人々、多藝の諸侍をかたらひて家の再興をぞはかられける。これによって勢南譜代の士、餘多同意して蜂起しけり。先三瀬谷には栗谷、唐櫃の諸士、長谷街道には菅野、谷、三田、三竹の諸家、小倭には一族七人衆一味せり。川股谷は元より東門院の領地なれば、波瀬、峯、乙栗栖をはじめ諸士盡く從ひ、具親をば森の城に迎へ入れて、峯、森、鳥屋尾、家木の人々守護しけり。織田家彼等を退治せんとて、三瀬をば森清十郎にあたへ、川股をば日置大膳亮にあたへ、小倭をば瀧川三郎兵衛、柘植三郎左衛門、長野左京等に與へて先手と定めらる。天正五年の春具親方、川股谷、瀧野、有馬野村等鐡中と云所に砦をつくり、國中へ討て出んとす。(巻六 附 具親)

伊勢国司記略写本-2

 原本や同時代写本は筆による手書き文字で「、」も「。」も付されていない。昭和8年に刊本される時に、読みやすいようにと付けられたのだと思われるが、付け方によっては捉え方が変わってくる。
 郷土史家の故小林孚は『勢陽雑記』の「同五年瀧野、有馬野、鐡中と云所に取手を・・・」という記述を見て、文化年間には三城あったように伝承していたようだ。(『多芸国司縁の城址』)と、誤った認識をしている。「、」が付いていることから写本ではなく刊本を見ていたはずだが、なぜ文化年間(1804-1818)と読みとらえたかは不明である。
 『勢陽雑記』を書き表した山中為綱(1613-82)は江戸時代初期の武士で、慶長十八年に生まれ天和二年に没しているのだ。また、城は3つではなく、1つである。小林は明らかに3つの地名と捉え間違いをしている。
 伊勢国山田古市の郷土史家である安岡親毅(1758-1828)没後の天保四年(1833年)に完成した『勢陽五鈴遺響』には、「川俣谷滝野有馬野鉄中ト云フ処ニ砦ヲ造リ」と記されている。
 『伊勢国司記略』を書き表した斎藤拙堂(德藏:1797-1865)は、江戸時代後期の朱子学者である。拙堂が「川股谷」を付記したことでこの一文がより明確に理解できる。すなわち、「川股谷(地域)」の「瀧野(組)」に属する「有馬野(村)」の「鐡中(という場所)」である。しかし拙堂はなぜ「等」の一文字を付け加えたのか理解に苦しむ。この文字があるだけで有馬野村の鐡中と素直に読み取れない。美杉ふるさと資料館で写本資料を見せていただいたところ、やはり「等」という文字は入っていた。
 ところが「有間野村の鐡中城」を裏付けする資料が有間野に住む長井家に存在した。長井家の家系図のコピーを見せていただくと、有間野長井氏二世の成知の箇所に次のように書かれている。

 成知天正年中多氣國司教具(原文ママ)之亡臣等相集而起一揆築要害於有間野村(号+乕=号)之鐡中城既籠城時成知依義之(一/日+ケ)趣而共守城數抽戦功勵勇義寛永二十未七月二十一日卒九十歳
  成知 号 長井利兵衛  住 有間野村

 長井成知は、具教の家臣たちが有間野村の鉄中城に籠城した際に、共に城を守って戦った。長井氏は浅井長政の家臣で、天正元年(1573年)の小谷城落城に際して江州(近江国)から勢州(伊勢国)へ移り住んだ武士である。したがって北畠氏家臣団に名前は連ねられていない。
 鉄中城の戦いは激しい戦いとなったようだが、和議を結んで開城となった。

 瀧川三郎兵衛、池尻平左衛門、天野佐左衛門、田丸中務、日置大膳等押寄せ、一日一夜互に勇を振ひて相戦ふに、寄手死傷多く、大将瀧川、日置も疵を蒙れり。其後和議行れ城をあけて退く。
(『伊勢国司記略』巻六 附 具親)

 有間野や滝野を調べると、古書には必ず川俣谷(川股谷)という名称が出てくる。どの範囲を示すのか、古書には次のように記載されている。

 柏野より下滝野、宮の前、赤桶、田引、乙栗栖、七日市、波瀬まで七里、川に添いければ川俣谷と名付く。(『南勢雑記』十九 川俣谷)

 波瀬村ヲ始トシテ粥見村ニイタリ、行程七里ノ間ヲ方俗川俣谷ト称ス。(『勢陽五鈴遺響 4』飯高郡)

 また、『角川日本地名大辞典』には、「平安期〜江戸期に見える櫛田川上流域の名称。『太神宮諸雑事記』の延久元年七月の条に初見」とあり、11世紀半ばには「川俣谷」という名称が定着し始めたことが知れる。
 柏野(現飯南町粥見柏野)から波瀬という距離は、現在の和歌山街道を走って行ってもおよそ30kmもある長い距離である。この間の櫛田川沿岸がひとくくりに「川俣谷」と呼ばれていたのである。
 時代は下って家康が江戸に幕府を開いてからは、全国を幕府領と大名領(藩)とに分けて、行政機構を整備していった。領主が村を組織的に支配するために「組」が作られ、松坂領内飯高郡は8つの組みに分けられた。有間野村は滝野組に属し、他に滝野、神原、下栃川、下滝野、木地小屋、神殿、野々口、作滝、赤池、赤桶、田引、高山の村々が属していた。さらに「川俣谷」の馴染みが強かったのか、滝野組と七日市組、波瀬組の三組を総称して「川俣組」と呼んでいた。
 これらのことから、地誌に書かれている、「瀧野、有馬野、鐡中」もしくは「川股谷、瀧野、有馬野村等鐡中」とはそれぞれ独立した地名ではなく、広い範囲から「鉄中」という地名へと絞り込んでいった関係であることが解る。惜しむらくは現在の有間野には「鉄中」という字名はなく、「上ノ原」であることだ。ちなみに『北畠氏の研究』には「川俣谷の有間野の鉄中城」と明記されている。

 さて、鉄中城があったとされる台地(現上ノ原)は東西におよそ300m、南北におよそ100mの3ヘクタールほどの広さがある。周囲は雑木で囲まれており、周辺からは台地の様子を伺うことはできない。台地の中央部少し北側よりに石積みされた井戸が残っており、この井戸が鉄中城の遺構であろうと地元では言い伝えられている。
 上ノ原で生まれた古老のエピソードが記録されている。「上ノ原で生まれ上ノ原在住の杣木氏の語るところによれば子供の頃長兵衛(屋号)の前にある城井戸のそばでよく遊んだものだ。底が見えない様な石垣で巻いた深い井戸だった。新田の野呂氏の弟がこの井戸へ子守りをしていて子供と共に落ちた事があったが運よく傘をさしていたので助かった。」(『下栃川村称念寺檀家史』)
 長兵衛(屋号)のばあさまも、井戸が深くて牛が落ちたりしたので、おが屑を捨てて少し埋めたという話しを聞かせてくれた。
 しかしこの井戸が築城当時のまま残されているのか、近世に組まれたものなのか判断できないため、安易に鉄中城の遺構と断定できないという研究者の声もある。

上ノ原地図

 現在、上ノ原へ上るには東側の南北に走る舗装路と南側の舗装路になる。長井家には大正期に作られたと言われる有間野の地図が伝わる。その地図で上ノ原を見ると、舗装路の2本は地道として表記されている。さらに東側の道から東西に横断する道が描かれていることに気づく。この横断する道のうち東側半分は側溝に沿って細い小径が続いており、登り口には南無阿弥陀仏と刻まれた板碑と無縫塔(卵塔)が、まるで忘れられたかのように雑草の中に取り残されている。
 上ノ原に住む古老は幼少期にこの道を通って学びに通ったり、行商の荷車を後ろから押し上げたりしたと懐かしそうに語る。上ノ原にはこの細い道を上るしかなかったと証言しているが、先の長井家古図とは齟齬が生じてしまう。よくよく問い直してみると、西側の道も南側の道もあったのだが、よく使われていたのはこの道であったということだ。

 また、上ノ原に嫁したお母さんの話しでは、嫁いだ当時は上ノ原へ通じる道路が舗装路ではなく地道だったので、(南側の道を)自動車で上る時にタイヤの下に石ころ(滑り止め)などを置いて上ってきたという。たかだか40年ほど前の話しだと思われる。南無阿弥陀仏の石碑が祀られた道は「城山」と呼んでいたといい、台地の東端の平坦地は昔から「ばんば(馬場)」と呼ばれていたと証言している。
 先述の杣木氏は、「馬場と云う地名の処は細長く広い場所であり戦死者をまつる碑が各所に建っている。」と述べているが、在住の古老に訊いても見た覚えがないという返事であり、「ばんば」の昔話を聞く中にも碑の話が出てきたことがない。
 明治22年に測図し昭和6年に発行された地図を検証すると、範囲の大きな地図のため細かい道は表記されていないが、有間野村を横断する主要道が長井家古図と異なっており、場合によっては長井家古図は江戸末期の姿を表しているのかもしれないとも考えられる。
 台地の地形は、鉄中城があった時代とほとんど変わっていないと思われる。長井家古図を見ると住居は7戸が確認でき、現在でも10世帯が暮らし、自分もそのうちの1戸である。畑地の中に石積みされた竪井戸が突然存在するのも不自然と思われる。やはり住居のようなものが存在していたのではないかと思えてしまう。
 『下栃川村称念寺檀家史』には「川俣谷弓矢之事」とい貴重な文書が記載されている。宮前の滝野家に残されていた、森本喜久が江戸に送った文書の写しが「川俣谷弓矢之事」である。飛騨守の子孫である森本嘉一氏がボロボロに虫に食われた古文書を買い受けた貴重なもので、変体仮名を交えた草書で書かれているため判読に苦労されている。

一、大河内籠城すぎ三年目国司御一門方々にて御腹召され其の後国司弟南部東明寺住にて御座候処住居なされず伊賀国長木の吉原頼み御座なされ候処と伊勢国侍衆申すやうに今一度元の主人筋もちい国司に仕るべしとて伊賀国に御座なされ外北畠一行具親法師もちう可しとて中山内筋菅野谷殿、三国殿、三多気の左京殿等川俣谷筋滝野殿、馬場殿、鳥屋尾右近殿、波瀬宗殿、三瀬谷筋唐櫃殿、明豆殿、栗谷殿、江馬殿、三瀬殿、大内山筋其外南伊勢侍衆残らず申合せ天正五(丁丑)年七月七日に滝野村有間野(てんちう山)に取篭り候事。
(後略)

 寛永十五年戊寅如月十一日
     浄光入道 森本喜久

御江戸様より御尋ねに付
  ものこゝろにて書上うつし置申候

 読み下し文では、「滝野村有間野に取篭り」と記されているが、文書の図版を見ると「てんちう山に」と書かれている。有間野の「てんちう山」に立て籠もったのである。惜しむらくは「城」や「砦」と表記されていないのがとても残念である。
 有間野合戦についてその時期を明示している資料は『伊勢国司記略』だけで「春」としか表記されていない。長井家系図にも時期は記されておらず、「川俣谷弓矢之事」の七月七日という表記はたいへん重要である。
 『下栃川村称念寺檀家史』には喜久が若年ながら父・俊貞に代わって籠城したと記されているが、喜久本人が書き付けた「ものこゝろにて書上」という表現が気にかかる。もし籠城して実体験しているのであれば、生々しい内容が書き連ねられていても良さそうに思うし、「ものこゝろ」などという言葉を加える必要はなかろうかと考える。
 喜久の生年は不明だが、承応二年(1653年)に亡くなっている。天正五年(1577年)に起きた合戦の76年後に当たるため、籠城していたとするとかなりの長寿であったことになるが、江戸時代ですら平均寿命が30歳代といわれているので、中世の日々戦いの中で長寿を全うできるのはごく限られた人になろう。没時の年齢が記録されている四代前の飛騨守俊成の六十歳同等と仮定しても籠城後の生まれであるのだ。ちなみに江戸住まいの領主宛に書いた文書(寛永十五年:1638年)は亡くなる15年前のことである。
 喜久の父・俊貞も生年は不明だが、寛永七年(1630年)に没している。三瀬の変(天正四年:1576年)の後に所領地の下栃川村へ戻り北畠一族を弔う称念寺を開基する。三瀬の変から亡くなるまで54年間もある。三瀬の変の時に15歳だと仮定すると69歳の長寿となる。若年ながら家臣を従え籠城したのが、喜久ではなく父の俊貞であったとすれば、一連の資料の記述に無理のない解釈が可能となる。やはり喜久は父から当時の様子を詳細に聞き継いでいたのではないかと思われる。
 『勢陽雑記』『勢陽五鈴遺響』などの地誌や『伊勢国司記略』では、「瀧野、有馬野、鐡中と云所に取手をつくり」とあり、長井家系図には「有間野村(号+乕)之鐡中城」、そして「川俣谷弓矢之事」には「滝野村有間野てんちう山に取篭り」とあり、鉄中城がどこにあったのか朧げにあぶり出されてきたように感じる。
 地元では、『三重の中世城郭』にある「上の原館(跡)」こそが鉄中城があった場所といい伝わるが、有間野にはもう一つ城跡がある。『三重の中世城郭』には「高城」と記されており、天正時代の北畠具親ゆかりの遺跡とされている。

概要
有間野神社東の標高240mの山頂にある。『伊勢兵乱記』に、「北畠具親天正五年滝野有間野鉄中ト云処ニ取出ヲ拵ヘ盾篭ケレハ信雄卿滝野三郎兵衛池尻平左衛門尉天野佐左衛門田丸中務少輔日置大膳亮ニ仰テセメラルル」とある「取出」がこの城とも思われる。頂部に30×10mの平坦地がのこるだけである。

 と書かれてあるが、現在の有間野住民でこの「高城」をよく知る人はほとんどいない。むしろ神社裏に城跡があったことに驚いている様子である。自分もこの記述を初めて目にした時は、何かの勘違いだろうという程度でそれほど気にもとめていなかったが、『下栃川村称念寺檀家史』には「てんちう山」の説明が記載されている。

 てんちう(伝十)山は下有間野長右衛門(屋号)の上の山を云う。今此の山には浅間さんと愛染明王を祀る。よく眺望のきく恰好の「とりで」である。大西家系譜によれば、
 天正五年川俣谷の国司家臣相謀り主家再興のため具親を迎へ旗上げす。喜久(又助)いまだ若年乍ら父彦一郎に代わり舎弟甚太夫等を召連れ野呂左馬頭殿、同長門守殿、同馬場土佐守殿其の他旧家臣地侍都合六百人と共に
銕中山(伝十山)に立こもれり。七月七日織田方滝川三郎兵衛、池尻平左衛門、平野佐左衛門、日置大膳の四人を大将として攻寄せ一日一夜の戦に六百余人の敵を討取り、滝川、日置の両将に手疵を負わせしが寄せ手大軍故和議して波瀬の峯城に引退れりとあり。

 「鉄中」とか「鉄中城」という文字は古い記録に記されているが、「鉄中山」という文字は初めて知る。『下栃川村称念寺檀家史』には「鉄中城址」の頁もあるが、内容が少ない上に「有間野字一ノ瀬黒桐にあり」という全くの見当はずれと言える箇所もある。
 現在「伝十」ではなく、「デンジウ」という表記で字名が残されているが、飯南町地域振興局ではその範囲を知ることができなかった。そこで振興局に保管されている大正13年製作の古地図を拝見すると、子安地蔵尊から山頂にかけての稜線から南側の斜面だけの、現在では宅地の全くない雑木林の範囲であることが解った。そのため今日では「デンジウ」と聞いてすぐにその場所を理解する人もいない。有間野住民の間では「デンジウ山」ではなく「じげんじ山」と呼び親しんでいるため、なおさら「デンジウ」を知らない。

 このあたりで鉄中城伝承について整理してみると、地誌には「鉄中」という所に砦を作ったと記されている。または鉄中城に籠城したと記されている。しかし地誌だけでは場所を特定することが困難である。
 神原、栃川、一之瀬、粥見、宮前、滝野などなど古い地名はことごとく残っているのに、なぜ鉄中が残らず、上ノ原なのだろうかと不思議に思っていた。
 一方、同時代資料といってもよい「川俣谷弓矢之事」には有間野のてんちう山に立て籠もったと書かれてある。『下栃川村称念寺檀家史』では「てんちう山」は「銕中山」と表記されカッコ書きで「伝十山」と記載されている。著者の大西曻さんは十数年前に亡くなっており、「銕中山」と表記した根拠を知る手がかりは無い。
 「てんちゅう」と表記されているが、「でんじゅう」と呼ばれていたと思われる。そのため「伝十」と表記され、「鉄中」へと転化されたと考えると、「鉄中」とは「てんちう」のことであると読み取れる。
 これらのことから「鉄中という所」とは「てんちう山(鉄中山)」である可能性が高いと判断できる。砦は和議で開城しているが、有間野神社はこの時の合戦の飛び火で焼失したと伝わる。もし上ノ原に鉄中城があったとすると、神社をはじめかなり広範囲に渡って火の手が上がったのではないかと考えられるが、デンジウ(てんちう山)にあったとすると、有間野神社は山の麓にあたり一連の山間に位置するため砦を落とす際に麓(神社)に火をかけたという推論ができる。
 鉄中城は天正四年の北畠具教暗殺の知らせを聞いて、翌年に実弟の具親が蜂起して作られたと記録されていることから、「てんちう山」の山頂に作られたとすると納得もいく。もし上ノ原に作ったとすると、開けた台地に館も建っていなかったのかと不思議とも感じる。上ノ原に関する近世の地図資料を発見できないため、台地の様子を想像することは困難だが、唯一の手がかりは遺された石積みの井戸だけである。
 それではと『三重の中世城郭』に記載された「高城」が本当に「鉄中城」なのか実際に登ってみた。有下地区の子安地蔵尊脇の山道を登っていくとすぐに山頂へ到着する。『下栃川村称念寺檀家史』に書かれているように浅間さんと愛染明王が祀られている。
 山頂平坦部の東側に愛染明王、西側に浅間さんが配置される。山頂が300平米ほどの平坦地といえば、滝野城跡があったと伝わる高城山と同じで、自然に平坦になったとは考えにくく、やはり人為的に拓かれたのではなかろうか。

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 では、愛染明王と浅間さんを祀るために平坦にしたのであろうか。尾根続きの「じげんじ山」の浅間さんは尾根の少し開けた場所に祀られている。栃川地区のお滝不動は、少し小高い丘の上に祀られており自然の地形をそのまま利用している。愛染明王の小祠ほどの大きさであれば、わざわざ平らにしなくても安置できる場所を選べば済むのではないだろうか。
 現在は雑木が密集して視界を遮っているが、視界が開けば櫛田川沿いの向粥見地区が一望できる。仮にここに鉄中城が建っていたとすると、櫛田川下流から攻めよせる信雄勢の動きは手に取るようにわかるだろう。ここに城跡があったと云われる伝承がある以上、このロケーションで砦が築かれることは無いと断定できる根拠は見いだせない。
 平坦地を詳しく見てみると、角が落ちて丸みを帯びた15センチ前後の石が多いように感じる。石積みに使われた石なのであろうか。山道の途中には石積みで法面の補強をされているし、注意深く周辺を観察すると所々に同様の石が転がっている。近代に入ってこの辺りは耕作地の確保として石積みで土地整備が行われている。そのため転がっている石が中世の砦に使われていたものである可能性は極めて低い。残念ながら見渡す限り中世の遺構の痕跡は見つけられそうにない。

(北畠具親)/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 北畠具親は伊勢国司七世晴具の末子で八世具教の弟である。小さい頃より仏門に入り、興福寺別当東門院主となる。天正四年(1576年)に国司一家滅亡の知らせを聞いて大いに憤り、密かに南都を去って、伊賀国の長木(現在の三重県名張市奈垣)に住む吉原氏に身を寄せしばらく逗留しているうちに還俗して、北畠宮内少輔具親と名乗り佐々木承禎の娘を妻とした。
 密かに三瀬谷、川俣谷、多藝の旧臣たちにはたらきかけ北畠国司家の再興をはかった。これで南勢譜代の士が多数蜂起して、三瀬谷には栗谷、唐櫃(からと)の諸士、長谷街道には菅野(すがの)、谷、三田、三竹の諸家、小倭には一族七人衆が味方する。川俣谷は元から東門院の領地なので、波瀬、峯、乙栗栖をはじめ諸士がことごとく従い、具親を森の城に迎え入れて、峯、森、鳥屋尾、家木らの旧臣が守っていた。
 織田家は彼らを退治するために三瀬谷を森清十郎、川俣谷を日置大膳亮、小倭を滝川三郎兵衛、柘植三郎左衛門、長野左京らに与えて先手を命じた。天正五年の春に具親勢は川俣谷の滝野の有馬野にある鉄中という所に砦を造って中央に討って出ようとする。
 信雄方の
滝川三郎兵衛、池尻平左衛門、天野佐左衛門、田丸中務、日置大膳らが押し寄せ、一晩中戦ったところ、攻め手は死傷者が多く出て、大将の滝川も日置も傷を負った。その後、和議を通じて城を明け渡し退く。滝野、山崎の城も日置大膳の弟の日置治太夫に攻め落とされ、長谷街道の菅野、谷の城に押し寄せる。城方は攻防するも多勢に無勢で攻め落とされる。次に伊勢侍衆が三竹の城へ攻め寄せ、三竹左京亮らはしばらく籠城した後に和議で城を明け渡す。三田の城は沢、秋山が攻め落とす。
 三瀬谷は森清十郎が調略して三瀬左京以下が従った。川俣谷は日置大膳が調略し赤羽新之氶を引き入れた。小倭は一族百人ばかりが七人衆を大将として所々に立て籠ったが、滝川、柘植、長野らが智謀を持って和議を通し味方とした。諸方で信雄方に属せども川俣谷の波瀬、峯以下の侍衆五十人ほどは二心なく具親を守って立て籠もった。
 日置兄弟は朝に夕に攻め寄せ、赤桶、九曲の城を攻め落とす。秋山、沢、芳野、本田、三瀬谷、森の諸士が加わり日置兄弟の先陣で、波瀬、峯の城を攻め寄せる。峯はよく戦い攻め手の勇士を多く討ち取るも、勢力すでに尽き果て場内にて自害、峯の弟と乙来栖は生け捕りにされ終に落城する。日置は加勢の大軍をもって森城に猛攻して終に攻め落とす。
 具親は伊勢国を落ち行き安芸の毛利を頼りに備後国に潜伏する。家木主水佑も森城を脱けて川俣山に逃れたが、追っ手に囲まれ散々に戦った挙句に討ち取られた。峯、乙来栖、田引らは囚われの身となり、田丸城にて斬首となった。六呂木、山副、波多瀬の三人は船江の本田に預けられたものの、逆賊として磔にされた。
 具親は備後国に潜伏すること数年、時を伺っていた折、天正十年に信長が討たれ、諸将の間で確執が起こると聞き、再び伊勢国へ戻り、密かに南勢諸士にはたらきかける。安保大蔵少輔兄弟、岸江大炊助、稲生雅楽助らをはじめ数百人が与力して五箇の笹山に籠り、十二月晦日に大河内へうち出て在家をことごとく焼き払う。明けた天正十一年元日、津川、玄蕃、田丸中務、日置大膳、本田左京らが大挙して押し寄せ息をもくれず攻め戦う。
 城兵側もここを専らと応戦するが、終に堪え難く明けた二日の夜中に松明を投げ出し鉄砲をうちかける。明け方になって並木に松明、鉄砲を結びつけ敵を騙して、具親以下は山伝いに伊賀国へと落ちて行く。具親はなおも伊賀国にて一揆を起こしたが、ことごとく滝川三郎兵衛に平定された。伊賀国に深く潜伏し、時折伊勢国へ向かい譜代の諸氏にはたらきかけるものの、時勢は移り、家運も傾き、終に本意を遂げることはできなかった。
 天正十二年、蒲生氏郷が秀吉の命により南伊勢に入部し八月十四日に千余騎を率いて小倭に向かい、信雄方の口佐田、南出などの城を攻め落とし、奥佐田の城を取り巻いて攻めた。具親はこの様子を聞くと安保大蔵少輔から氏郷へ伝えてもらうべく伊賀から馳せ参じた。信雄は苦しくなれば必ず降参するはずである、伊勢国は先祖類世が治めてきた地であり、諸士はその事を忘れることはない。氏郷の同意を得るには城へ使者を送り、説き伏せるべきであると。
 氏郷は喜んで具親の申し出を受け、城将の堀ノ山次郎左衛門直は承諾して城を明け渡した。小倭の侍たちも堀ノ山に従い尾張国へ退いていった。その年の十一月中頃、織田と羽柴は和議を結び、秀吉は具親の此度の功労を褒め上げ、千石の所領をあてがわれ氏郷の預かりとした。
 しかし具親は、武士であることは本意ではなく、願わくば在京して朝廷の臣下でありたいと申し出て、秀吉は快く承諾し天子へ奏上した。しかし具親の希望は実現することなく、ほどなくして氏郷の元にて亡くなった。
(『伊勢国司記略』巻六 附 具親 [意訳])

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 移住して早々に、松阪市文化財センターに「上の原館跡」の発掘調査報告書を見せていただきたいと訪ねたが、発掘調査はされていないので報告書はないと言われた。なんでも発掘調査を行わなくても、現地の伝承で遺跡指定もできるのだという。神原の上山下遺跡なども指定範囲が畑地や水田の中にあたり、発掘調査が事実上できない環境などでは、伝承だけで遺跡指定せざるを得ないということだ。
 しかし『三重の中世城郭』の「上の原館」の項には「全壊」という文字が付記されている。時代・城主の欄も空欄で、調査も実施されていないのに全壊と判断されているのは寂しいものである。今でも掘ったら何か出てくるのではないかと思いながら、鉄中城がどこに建っていたのか妄想を描きつつ自宅の庭を眺めることがある。

<参考>

『飯南町史』
『飯南郡史』

『伊勢国司記略』齋藤德藏

『勢陽雑記 五』山中為綱

『勢陽五鈴遺響 4』安岡親毅

『南勢雑記』常誉摂門

『多芸国司縁の城址 上巻一』小林孚

『北畠氏の研究』大西源一郎

『角川日本地名大辞典 24 三重県』
『下栃川村称念寺檀家史』大西曻
『北畠氏の研究』大西源一
『長井家家譜』長井正憲
『有間野村古地図』長井正憲
『有間野村古地図 大正13年』飯南町地域振興局

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