珍布峠

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2016年11月

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 飯高町宮前の花岡神社を少し下ると辻の西側に狭い道が延びており、これが旧和歌山街道になる。角地には珍布峠方面の看板も出ており、間違えることはない。この道をまっすぐ進むとすぐに道標が見えてくる。「左 くりたに是より れいふみち八十丁 紀州ミち よし乃かうや ならはせ」と彫られているが、「くりたに」は「栗谷」、「れいふみち」は「霊符道」である。
 近くの案内板には、「左」という字の大きさ、力強さから、霊符山大陽寺(れいふさんたいようじ)への信仰の篤い方が道案内として建てたものであることが判る。と表記しているが、信仰心が薄いためか自分にはそのようには感じ取れない。
 道標とは、それを頼りに行脚する人のことを想って心を込めて作られたものだと思うので、自然とその文字に勢いが感じられることが多いのではないかと考える。ちなみに「よし乃かうや」は「吉野、高野」「ならはせ」は「奈良、長谷(初瀬)」である。
 この道標をまっすぐ進むのが紀州道(和歌山街道)で、左に折れ、川俣川(かばたがわ:櫛田川のこと)を渡り、野々口から尾放峠(おばなしとおげ)を越す山道が大陽寺への道として古来から多くの人々が行き来した。80丁とはおよそ8.7kmほどになるが、まっすぐ南下するのでこの距離だが、現在では和歌山街道(国道166号線)から富永で国道422号線を進んでいくためおよそ23kmほどの距離になる。
 霊符山大陽寺は三重県多気郡大台町栗谷にある寺院で、永延三年(989年)、花山法皇が西国三十三ヶ所巡幸の途上、三瀬の宿舎から来山され、17日間御参籠されたと伝えられ、古くから祈願所として知られている。この霊符道は信仰の道であるとともに、三瀬(大台町)と多気(津市美杉町)を結ぶ生活の道でもあった。三瀬の変で落命した北畠具教の首級を家臣が運び出した時に駆け抜けたのも尾放峠である。

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 先へと進んでいく。この辺りはまだ住宅が建ち並んでいるが、じきにまばらとなり山の緑が間近に迫ってくる。小さな茶畑を過ぎたあたりに「木戸の一軒家」の案内板がある。ここは旧瀧野村の西の出入り口にあたり、一軒の茶店があって草鞋や駄菓子を売っていたという。その痕跡を探してみたが、今では草木に覆われて何の手がかりも見つけることはできなかった。ここから谷出(たにで)までは人家もなく道行谷に沿って松並木が連なっていたが、度々の道路改修と戦時中の伐採により当時の松は一本も残っていない。
 いよいよ山間の道へと踏み込んでいく。左手に流れる側溝のような小さな川は蛍の生息地になっている。「たのしいウォーキング すばらしい自然」の文字に気持ちが高ぶる。小さな川には所々に石でできた自然の堰があり、水の流れに変化をもたらして単調になることがない。

 しばらく進むと右手に馬の絵が描かれた看板が立てられており、「馬の水のみ」と表記されている。竹をくりぬいた樋で水を取り込んで飲めるようにしてある。インターネット情報を調べるとかつてはコップが置かれていたようだが現在は無い。さらに杉林の中を進んでいくと、「死人谷(しびとだに)」がある。右手奥へと谷が続いているのだが、いつの時代のことか判らないが、この少し奥で谷水を飲む様子で行き倒れている人がいたそうだ。長い間気づく人もなく、後に村人は無縁仏として葬ったそうだが、その時からこの谷は「死人谷」と呼ばれ嫌ったという。珍布峠を越えてきた人なのだろう、もう少し歩いていければ瀧野村で休息できたというのに無念だったろうな。
 旧街道は舗装されているため自転車のペダルも軽やかでどんどん坂道を進んでいける。杉林から漏れる朝陽が心地よい。杉林が切れたところに「道行谷(みちゆきだに)」の案内板が立つ。櫛田川の支流になるこの谷川を道行谷といいここに架けられていた土橋を道行橋といったという。今はその橋もなくコンクリートの橋へと変わってしまった。吉野を逃れた義経と静御前が通ったという伝承を知る人も少なくなったが、真偽のほどはともかく地名として残るいい伝えを残しておきたいと案内している。
 さらに先を進んでいくと「石灰爺さん」の案内板があった。ここに生まれも身寄りも名前も判らない爺さんが独りで暮らしていた。どこで習い覚えたのか山から掘り出した石灰岩から石灰を作っては、里へ出て米や味噌などを買っていた。酒が入ると「蝶がムカデに惚れました。何で惚れたと問うたなら、おアシの多いのに惚れました。」などと上機嫌に浪曲を語って村人の人気者であったという。昭和初期にはどこに行ったのか、誰も見かけなくなったそうだ。
 古典芸能に精通している人には説明は不要だと思うが、「おアシ」は「お足」「御足」もしくは「御銭」と表記されるようにお金を表す女房詞である。お金はまるで足が生えているかのように行ったり来たりすることから、お金を「足」にたとえ、女房詞ゆえに「お」が付いて「お足」となった。
 雑草がせり出す道を上っていくと両脇が壁のように暗く、真ん中に少し開いた空間の切り通しが見えてくる。そこが珍布峠である。

(珍布峠の国分け伝説)////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 大昔のこと、伊勢の神さまである天照大神が白馬に乗って旅をなさっていた。飯高町宮前と飯高町赤桶の境にある峠に差し掛かられた大神は、「伊勢と大和の国境がどこにあるか知るものはいないか」と尋ねられた。すると水屋の森から白髪の翁が大神の前に現れたので、「おや珍しい、天児屋根命ではないか」と声をかけられたので、「めずらし峠」という名がついたと云われている。

 天児屋根命は峠の下を指差して、「この下の堺ケ瀬(かいがせ)が伊勢と大和の国境でございます」と申し上げたところ、大神は、「この境は疑わしい」と言い、石を川に投げ入れて波の留まるところを国境にしようと天児屋根命に持ちかけた。そして大神はそばにあった大石を軽々と持ち上げ、まるで石つぶてのように眼下の櫛田川に投げ入れられた。

 すると、川水から大量のしぶきが上がり、滝のように落下したので、あたり一帯は「滝野」と名付けられた。落下した水は川上に流れ込み、その波が打ち寄せる地をそれぞれ、加波(かば)の里、波瀬(はぜ)の里、舟戸と呼ぶようになった。さらに、波が高見山を越えた所を杉谷(奈良県)、川下に波が留まった所は波留(はる)と呼ばれるようになった。

 結局、大神は「今日のこの日より高見山を国境としよう」とおっしゃり、以後、伊勢と大和は高見山を境に分けられるようになったという。この時、大神が投げ入れた石は櫛田川の真ん中にある巨大な石で「礫石(つぶていし)」と呼ばれるようになった。
 (三重のむかしばなし)

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 往時、和歌山街道を往来した旅人は、子どもが授かるように願をかけながら、川の礫石をめがけて小石を投げたと言い伝えられている。現在でも願掛けに訪れる人がいるのだろうか。
 国分け伝説では高見山を国境と定めているが、赤桶の水屋神社には珍布峠以西が大和国と受け取れる棟札資料が遺されている。

   願主 太夫三郎国重・大工紀内太夫
 大和州阿伽桶庄宮奉加造営事
      文中年癸丑九月初八日

 文中癸丑(みずのとうし)は南朝暦で長慶天皇即位6年目の文中二年、北朝暦では後円融天皇即位2年目の応安六年に当たる。飯高町に現存する古文書では最古のものであり、棟札にははっきりと赤桶が大和国であると明記されている。
 「川股谷は元より東門院の領地」と三瀬の変時の北畠具親挙兵の際は、奈良興福寺東門院領として大和国に属していた。それが、大河内城合戦に伴う和睦後に信雄家臣となった日置大膳亮兄弟の平定後は、その武功により伊勢の分領とされた。『伊勢国司記略』や『北畠物語』に書かれている「川股谷」がどの範囲を示しているのかは判然としないが、鉄中城に関する記録をみる限り、珍布峠以東も含まれていたと考えられる。
 しかしながら、太古の時代から高見山が伊勢と大和の国境だったのが、北畠氏が国司となった時代から珍布峠辺り(川股谷)が国境となり、北畠氏滅亡後は再び伊勢領となって、高見山が国境へと戻ったという大まかな経緯が考えられる。

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 珍布峠の岩肌を触ってみると、珪化木のような幾筋もの層を見つけることができる。爪で叩いてみると軽い音が返ってくる。これは意外と掘削していく度にそれなりの成果を得られたのではないかと思うが、これだけの容積を削り取るには相当な労力がかかっていることに違いない。
 国分け伝説にいう珍布峠はこの丘の上を通っていた。元和五年(1619年)松坂領が紀州藩の藩領(飛び領地)になってから、紀州藩主がこの和歌山街道を往来する機会が増えてきたのかもしれない。ちなみに伊勢神宮の隣地は、一部の天領・鳥羽領・神宮領の混在をのぞいて、松坂領・田丸領となり紀州藩の領地となっている。
 紀州の殿様が往来する度に難所の珍布峠を越えていかれるのは忍びないという領民たちの想いから、長い時間をかけて手掘りで掘削していったという、言い伝えを小津安二郎記念室のボランティア解説員に教えていただいた。おかげで峠越えが飛躍的に楽になったのは、殿様に限らず何人も同じで、現代人の我々にはさらにありがたいことである。
 掘削について詳細な歴史を飯高町地域振興局へ問い合わせてみたが、記録が残っていないとのことで、掘削に関しての詳細は全くわからないという。せめて当時の苦労話などが伝承で残されていないかと訊ねてみるも、そのような話も聞いたことがないという回答であった。
 それではと、わが町の先生こと飯南町の学芸員統括監のW氏に掘削のことを問い合わせてみると、近世の事業であれば必ず何らかの記録が見つかるはずだが、この件に関しては何も発見できない。また何故このような労力をかけてまで掘削しなければならないのか、合理的な理由が見出せない。障壁に対して迂回していくのは中世以降の対処法で、障壁を取り壊してまで道を通す思想は古代にみられる。
 古代にこの地域を束ねていた飯高氏が丹生の水銀を運ぶために住民に掘らせたという可能性は?と改めて訊ねてみると、「あるかもしれない」と小さな低い声のトーンでの回答であった。また、振興局長からは丹生の水銀は櫃坂峠を通って奈良へ運ばれていたと『飯南町史』に記載されているということを教えていただいた。
 現在の珍布峠の成り立ちについて記載された資料が見つからないため、どんなに考えても合理的な説明が思い浮かばない不思議な存在である。

 ところで、「飯高」という地名は上古時代から平安時代にかけてこの地域を束ねていた豪族・飯高氏に由来する。『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇二十二年、天照大神がご鎮座される地を求めて伊勢に入られた倭姫命がこの地を旅した時に、お迎えした飯高氏の族長・乙加豆知命(おとかずちのみこと)に「汝の国の名は何と申すか」とこの地の国名を聞かれ、「意須比飯高の国」と申し上げると、「飯高(ご飯が茶椀に高々と盛られている)しと白すこと貴し」とおよろこびになったという。

 廿二年癸丑。遷飯野高宮。四箇年奉斉。干飯高県造祖乙加豆知命乎。汝国名何問賜。
 白久。意須比飯高国止白。而進神田並神戸。倭姫命飯高志止白事貴止悦賜支。

 意須比は「おすひ」と読み、本居宣長記念館によれば飯高に係る枕詞といい、『古事記伝』には、食器に物を盛ることを表し、余曽布とも意曽布ともいう。意曽比たる飯高しという意味の枕詞になると記されている。『時代別国語大辞典上代編』によると、「おすひ 枕詞。圧す飯、で飯をおさえて盛るの意味で飯高にかかるか」とある。何のことかさっぱり判らないので、W氏に訊ねてみると、「全く判らない」と苦笑いを返されてしまった。
 珍布峠を抜けると眼下に礫石が見える。旧和歌山街道はまっすぐ続いており、この先に赤桶の集落がある。ウォーキングを楽しむ方は、礫石へと進み、櫛田川沿いに下っていくと常夜灯、姿見の池、橋地蔵などを見て、道の駅「飯高駅」へと戻っていく。

<参考>

『飯髙町郷土誌』
『飯高町』
『倭姫命世記注釈』和田嘉寿男
『伊勢国司記略』齋藤德藏
三重のむかしばなし 
https://www.kankomie.or.jp/mMukashi/detail/mukashi12_oto.html
飯高駅 http://www.iitakaeki.com/contents/sightseeing-info/walking-course/

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