じげんじ山遊歩道

DSC07754 DxO

2017年7月

 櫛田川に沿って有間野集落の中心部を県道745号片野飯高線が通っており、すぐ南側に地元民から「じげんじ山」と呼ばれる小さな山の峰が横たわる。長老にどんな字を書くのか訊ねても、字までは判らないという。その「じげんじ山」には遊歩道が整備されている。東からでも西からでも歩いていけるが、西側には有間野公園があるので、そちらから進んでみる。
 極楽寺の脇の西側小道を上がっていくと、美味しい地元のお米を作っている長井米生活農場があり、その先の小さな丘が有間野公園となっている。石段を上がっていくと、宝篋印塔が祀られており、奥には黄色のブランコが設置されている。現在は年々人口が減少し続け、地元に住む子供たちも見かけることがない。かつては盆踊りや餅まきが行われ、有間野住民の憩いの場所であったと思われるが、今では散歩をする人もなく、うら寂しい広場になってしまった。
 山側には祠が祀られており、優しい顔をされた地蔵尊や厳しい顔つきの庚申さんが安置されている。祠の傍には頭の取れた地蔵尊と梵字が彫られた回国供養碑が祀られている。公園の下にも墓地があり、六地蔵の首はどれも飛んでしまい、左端の地蔵尊は足元から折れている。長井家に伝わる古地図を確認すると、しっかりこの墓地が描かれていることから、古くから伝わる墓地であることが判る。
 公園南側の舗装路を進んでいくと、右手堰の上方に改修された黒洞不動さんの祠の屋根が見える。道沿いに歩いていくと遊歩道の入り口があらわれるのだが、順路の立て看板は根元から折れてしまい、気がつかないと貯水池まで歩いていってしまう。せめて判るように道の脇へ移しておいた。
 よく見ると道は左にもあるようだが、正しいルートは右側になる。左側は急斜面を上がっていくと鉄塔の足元へ出る。では右側の道を進んでいく。草で覆われているものの歩きにくいことはない。はじめは少し上がるが、じきに道は下り、右に「自然を大切にしましょう 順路」左に「遊歩道」の看板が見えてくる。どちらも朽ち折れているが、かろうじて判るように置き直した。

DSC08946 DxO

 ここから少し急坂になるが、頑張って登り切ると平場に到着する。樹木の切れ目から眼下を見下ろすことができ、ちょうど有中地区とその北側を走る和歌山街道と周辺の下滝野地区が見える。ここには有中の浅間さんが祀られている。「浅間さん」は富士信仰に基づく富士山を神格化した「浅間大神」のことで、古くは「あさま」と呼んだようであるが、中世以降はもっぱら「せんげん」と呼ばれている。
 下調べで一度登ったのだが、その時は浅間さんを左に見てそのまま尾根を下ってしまい、見事に道を見失いあえなくリタイアしている。あらためて長老から道を間違えていると指摘され、浅間さんの左側の正しい道を下っていく。リタイアの愚痴を聞いた長老がすぐに壊れた順路の看板を判りやすい位置に置き直してくれていた。
 倒木はあるものの比較的歩きやすく、昨年秋のマップ調査時に歩いた時とほとんど変わっていない。下った先には鉄塔が見えてきて、これがじげんじ山に建つ4つの鉄塔のうち、西から2番目の鉄塔になる。遊歩道は鉄塔が建つ尾根に沿って延びる一本道なので先の浅間さんのポイントさえ間違えなければ、ルートを見失うことはない。
 鉄塔を越えると少し上り坂となり、右に下る道と分岐するが、遊歩道は尾根を通っているので、東の端に到着するまで分岐で下ることはない。したがって左の坂を登っていく。登り切るとまっすぐ道を東進する。しばらく進むと再び下りとなり下りきったところで、南北に通る道と交差するが、遊歩道はあくまで直進のみである。一応、ここにも順路の看板はあったようだが、壊れている。三度坂を登っていくと3つ目の鉄塔が見えてくる。ここまで来ると東端まではもうすぐである。鉄塔に到着するたびに休憩を入れれば、無理のない歩行ができると思う。
 そして緩やかに続く坂をゆっくり進んでいき、軽くアップダウンを越えていくと、急勾配の下りとなる。遊歩道の中で最もきつい下りになると思うが、足の置き位置をしっかり見極めて、一歩一歩足を下ろしていけばそれほど難しい下りでもない。そしてダラダラ坂を進んでいく。途中で大木が倒れており、根が岩を引きちぎった様が観察できる。自然の力は凄まじいと感じる。最後の坂を登ると東端の平場に到着する。

DSC09013 DxO

 平場の先には小祠が見えるが、手前左手には浅間さんが祀られている。祠はなく神像がむき出しで祀られているが、木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)なのであろう。東端の小祠には愛染明王が祀られている。台座には享保十六・辛亥の文字が読めるので、1731年に奉納されたようである。3本の左手には拳、弓、金剛鈴を、右手には未敷蓮華(みふれんげ)、矢、金剛杵を持つ。左の第三手の背景には赤い塗料が残っているようで、奉納時には光背に色がつけられていたようだ。
 東端の平場からは下りの道が続く。少し北側へまわると、一番東寄りの鉄塔も見ることができる。少し勾配のきつい坂を下っていくと、右手法面に石積みがなされている。かつてこの辺りで耕作を行なっていた際に築造されたと長老が話していたが、いつ頃のものかは判然としない。
 文政六年(1823年)時の有間野村の家数が五十軒、明治2年の家数が五十七軒と、現在よりもはるかに少ないため、労力をかけて石を積むことは優先度が低いのではないかと考えると、大正時代以降になって築かれた可能性が高いのではないだろうか。
 坂を下り切ると右手に朽ちた炭焼き小屋が残っており、ここを左手に下っていく。後は道なりに下っていくと、有下地区の子安地蔵へと下りて来る。この最後の緩い下りは年中枯葉に覆われており、意外と足を滑らせることがあり最後まで注意が必要である。
  下りきると、目の前には隣接する向粥見地区の景色が見え遠く烏岳まで続く山並みが美しい。ほんのわずかな尾根伝いの遊歩道であるが、惜しむらくは樹木が密生しており視界が開けていないことであろうか。せめて部分的でも良いので北側の視界が見通せられる箇所が作られると、遊歩道歩きをもっと楽しむことができそうだ。

<参考>

写真・図解 日本の仏像』薬師寺君子

© 2017 iinan.net