2017年5月
我が家のある有間野では2017年3月にウォーキングマップを完成させた。およそ1年という時間をかけて三重県、松阪市、マップ作りスタッフに地元有志が一丸となって有間野の魅力を再認識して踏査した結果の全てが1枚のマップに盛り込まれている。櫛田川沿いに広がる有間野は山も近いため、意外にも湧水が多く、先人たちは大きな貯水池を作って米作りの安定化に苦労された。
有間野という名称の由来は定かではないが、『伊勢兵乱記』に「滝野有馬野」と記されているのが初見となる。現在の表記は「馬」ではなく「間」であるが、文禄三年(1594年)の庄屋文書には「間」の字が使われており、この頃から「有間野」表記が定着していったのだと思われる。
有間野は有上(ありがみ)、有中(ありなか)、有下(ありしも)、神原(このはら)、栃川(とちかわ)の5つの地区から構成されている。自宅のある上ノ原は有上地区に属し、上ノ原遺跡と指定されている遺跡となっている。標高は160mほどで、表層からはチャート製の剝片、中世以降の土師器片が発見されている。
中世にはこの場所に「鉄中城」と呼ばれる砦があったと記録されている。伊勢国司である八世北畠具教(とものり)を暗殺された実弟の具親(ともちか)が、天正五年(1577年)に再興を願って挙兵した砦である。残念ながら証拠となる痕跡はなく、『勢陽五鈴遺響』などの郷土誌に伝承が記されているにとどまる。ただし、石積みで構成された井戸が残されており、鉄中城の遺跡かと思われるものの、築城当時のまま今日まで遺されたものと判定できる証がなく、近世になって作られた可能性もあると考える研究者もいる。
また小谷城から流れて来た浅井家家臣長井氏の子孫宅には家系図が残されており、有間野長井氏二世になる長井利兵衛成知(なりとも)が鉄中城に籠城したことが書き残されている。
鉄中城跡のある上ノ原の西隣には、神原に属する高城山が続いており、頂上に滝野城があったと伝わる。源平合戦の時代、平信兼一族が義経軍を迎え撃つために籠城した砦である。『(伊勢?)兵乱記』に書かれている滝野城がこれであると『勢陽五鈴遺響』に記されているが、やはり伝承を元に著者の安岡親毅氏が現地を検証して判定している。当時は秋葉山権現が祀られていたと記されているが、現在は金刀比羅宮が祀られており、有上と神原の住民で維持されている。かつてはこの場所で餅まきが行われていたのだが、近年では住民の大半が高齢者となり山道を登るのが厳しくなってきたこともあり、餅まきは麓の八幡宮で行われている。
秋葉権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であるが、三重県内の山間部では今でも多くの山岳信仰と関わりのある神社が残されている。秋葉権現が何故に金刀比羅宮に代わったのか、80歳を数える有中地区の古老に尋ねてみたが、小学生で初めて登った時にはすでに金刀比羅宮が祀られていたので解らないという返答であった。
高城山の麓には浄源寺が建つ。平信兼の菩提寺といわれるこの寺は、信兼の家臣の末孫平正忠が入道し、元祖菩提のため明暦二年(1656年)に一宇を建てたことにはじまる。過去帳によると、応永年間、享保年間、明治11年の3回焼失したことがわかる。現在の本堂は明治17年に再建され、昭和53年に大修理を実施している。
有上の山奥深くには「高山」と呼ばれた集落が半世紀ほど前まで存在した。マップには収まらないので表記されていないが、浅井家家臣の長井氏が中心となって営んでいたと考えられる。長井氏はじきに山を降りて有間野へ居住地を写したが、引き続き集落に残って生活を守ってきた人たちも多かった。長政が信長に討ち取られたのが天正元年(1573年)のこと。以来およそ380年もの長きにわたって暮らしてきたが、高度成長期に伴うインフラ設備が充実してきたことを機に山を降りる人が増えていった。古老の中には高山での生活を懐かしく話してくれる人もいる。最後の高山住民は有間野ではなく、浦谷へ降りていったという。どなただったのか知る由もないが、どんな思いで山を降りていったのだろうか。
神原には櫛田川に架かる中之瀬橋がある。黄色に塗られた鉄鋼フレームの橋は平成8年に架け替えられた。それまではもう少し上流に鉄橋が架かっていた。それは昭和36年に架橋された近代的な橋であった。昭和27年に地域住民念願の橋が完成したのだが、昭和34年の伊勢湾台風によって流失し、直ちに復旧されたものである。平成時代の橋の移設とともに袂に安置されていた地蔵尊も現在地へ移されてきた。祠の壁には「平成八年十一月二十四日 旧中之瀬橋より移転」と表記されている。
有中は有間野のほぼ中央に位置し有間野神社が鎮座する。古来から有間野の氏神として敬われてきたが、明治新政府による神社合祀令の際には血を流すような争いがあったという。壮絶な争いの結果、有間野神社は存続することとなり明治5年に村社となった。
有間野神社は有上、有中、有下の3地区が氏子となり、神原と栃川は隣町の粥見神社の氏子となっているという不思議なことがおこっている。なぜこのようなことになっているのか知っている人はいない、もしくは敢えて話しをされないのかもしれない。合祀令の争いと関係があるのだろうか?
有間野神社の西には長井家の菩提寺である極楽寺が建つ。長井利兵衛成知の開基である。浄土宗に帰依した成知は阿弥陀如来像を安置し、仏器等も全て寄進した。この寺が有間野の集落の中核となっていったであろうと考えられる。
極楽寺の脇の道を進んでいくと有間野公園がある。春になると桜の花が美しく住民たちの癒しの場所となる。さらに山奥へと進んでいくとお不動さんが安置されている。正式には「黒洞不動」と呼び、かつては高山村の黒洞に祀られていた。江戸時代末期に盗難に遭い、明治になって阿曽(度会郡大紀町)にあることがわかった。事情を説明し持ち帰ったものの、阿曽からの返却要請があり、新しい尊像を作って現在の地に祀った。
お不動さんといえば滝とセットで祀られていることがほとんどだが、ここには滝は無い。本来の地、黒洞にも滝は無い。不動明王の像容は三鈷劍と羂索を持つのを基本とするが、黒洞不動は三鈷劍に倶利伽羅龍が巻き付いた像容となっていて珍しい。
お不動さんから、「じげんじ山」の遊歩道を東へと歩いていくと、浅間さんや愛染さんが安置されている。この小さな山の中に2つの貯水池がある。それぞれ有下池、栃川池と呼ばれ、農作物への大切な水源となっている。有間野の山間部には大量の水が保有されているようで、湧水が多くあり、これらを有効に活用するため、先人たちは苦労してこれらの貯水池を作りあげた。
さらに遊歩道を進んでいくと子安地蔵が安置されている。こちらの地蔵尊も元は高山に安置されていた。小谷から高山へ移り住んだ有間野長井氏初世の長井成孝が、天正三年(1576年)に四国からお迎えしたものである。明治35年に高山から有下へ迎え請け堂宇を再建し遷座している。
子安地蔵を下り、片野飯高線(県道745号線)を少し西へ戻ると常夜灯が建つ。残念なことに詳細は全くわかっておらず、元々この場所に建てられていたのか他所から移されてきたのか、どのような由来があるのか不明である。しかし有間野の地は和歌山街道が通っているので、お伊勢参りに関わりのある常夜灯と考えるのが妥当ではなかろうか。
再び東へ進んでいくと、栃川地区に入り、ここには称念寺というお寺が建っている。北畠具教が三瀬で討たれ、事実上の北畠氏滅亡に際して、家臣であった森本飛騨守が旧領であるこの地に帰り、北畠氏一族の菩提を弔ったことにはじまり、当時は草屋だったと云われている。過去帳によれば宝永元年(1704年)に伝誉空外上人により開創され、称誉湧泉大徳の開山という。
有中の長井氏、栃川の森本氏、そして伊勢平氏の流れを汲む野呂氏、有間野にはこの三代名字の末裔で占められている。佐藤、鈴木、高橋、田中といった代表的な名字の方をまだ知らない。
称念寺からもう少し東へ進むと渓流沿いにお滝不動が祀られている。往時は毎朝のように村人が手を合わせに来たというが、今では人の影を見ることも希となった。古老によればこの細い道を頼りに大台まで通ったこともあると話してくれた。
櫛田川へ下りていくと有間野で唯一の沈下橋が残っている。川の南側は藪が密生しており通行できないが、近代的な橋が架けられる前は日常的に使われてきた。この辺りが有間野の東端となる。櫛田川の瀬や岩場には「のぞき」「ぜんぞうら」など変わった名前が付けられている。地形の特徴から付けられたり、屋号に因んで付けられたりしているが、いずれも当時の少年たちの遊び場であった。その少年たちも今では70歳を超えており、これらの呼び名を知る人も少なくなっている。
「ありまっぷ」に沿って、簡単な紹介となったが、丹念に散策していくとまだまだ見所はたくさんある。春には桜、夏には蛍、秋には稲穂、冬には柿、四季を通じて様変わりする自然の姿をぜひその目でご覧いただきたい。
<参考>
『飯南町史』
『勢陽五鈴遺響 4』安岡親毅
『下栃川村称念寺檀家史』大西曻