美杉ふるさと資料館

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2016年9月

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 移住してから身の回りの雑事に追われていたが、やっと美杉へ出かけることができた。仁柿峠を通るのは気が重いが宇陀から遠回りをすると2倍以上も時間がかかるためやむをえない。細い道幅は所々ですれ違いのスペースを確保してくれるが、対向車とすれ違う度に後ろへバックして、やり過ごすには神経を使う。美杉ふるさと資料館は多気(たげ)地区にある。ここは美杉町の中心から少し東南に位置し、中世の伊勢国司北畠氏の本拠地であった由緒ある場所だ。しかし美杉は今も陸の孤島なのか、来館者は誰もいない。
 入口脇には「力石(ちからいし)」が置かれている。レクリエーションの少なかった江戸時代には各地で石を持ち上げ力比べが行われていたという。この力石は美杉町下之川で保存されていたもので、「切付け(刻字)」のある珍しいものである。表面が劣化してよく見えないが「二三」と彫られている。これは23貫を表し、およそ86.5kgに相当する。自分は半俵(30kg)の米袋を持ち上げるのにも大変な思いをするぐらいなのに、米俵を超える重量を持ち上げるなどとは想像がつかない。

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 入館料が無料の資料館に入るとロビーに北畠氏館想像復元模型が置かれている。地元(上多気)の郷土史家鈴木喜三郎氏の労作だ。このような中世時代の建物の復元は大変な困難が伴う。総合的な判断で強引にでも想定していかないと製作はなかなか進まない。地方の郷土史家の想いだけで作られる復元模型も、中央の大家の先生だけでは実現できないことも多くあり、このような地方からの取り組みは喜ばしく感じられる。


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 展示室は単純な空間構成となっている。中央部に美杉町の地形模型を置き、周辺には北畠氏に関連する展示ケースが配置される。さらにその外側を回廊のように通路を設け、美杉の暮らしに関連した民俗資料が配置される。北畠氏に関心ある身としてはどんな資料も嬉しい情報となる。
 回廊部分を右手方向から時計と反対回りに進んでいく。壁面には伊勢国司北畠氏ゆかりの史跡が写真パネルで展示されている。その上には高札資料が展示されており、キリスト教に関わる禁令は固く守れ、邪宗門は固く禁止すると書かれているので、江戸幕府による禁教令かと思ったら、左端の「和歌山縣」という文字を見て驚いた。見直してみると「太政官」の上には「慶應四年三月」と書かれている。慶応四年は明治元年でもある。
 太政官とは明治新政府によって設置された官庁名で、6月に公布された政体書に基づいて配置された。先駆けること3月の時点では、すでに太政官の名で公示されていたことが判る。江戸幕府から大政奉還を受けた明治新政府は、3月14日に「五箇条の御誓文」を公布した。翌日には幕府の高札が撤去され「五榜の掲示」が辻々に立てられた。その内容は、第一札:五倫道徳遵守、第二札:徒党・強訴・逃散禁止、第三札:切支丹・邪宗門厳禁、第四札:万国公法履行、第五札:郷村脱走禁止の五つで、展示されている資料が第三札であることが判る。
 その先からは美杉の産業や暮らしに関わる資料が展開されている。美杉の中心部となる多気地区は山深い奥地にわずかに開けた平地で、周囲は緑が濃い歴史的に林業が営まれてきた土地柄である。林業が近世初期に飛躍的な発展を遂げたのは、この時期に城郭、武家屋敷、寺社、町屋などの建築工事が盛んに行われたためである。しかも美杉は雲出川の源流にあたり、山々から生まれ出た水の流れは、八手俣川、藤川、垣内川、大村川、弁天川、波瀬川、中村川となり、これらの清流が雲出川となって一志平野を下り伊勢湾へと至る。そのため町内の流域にあたる八知や竹原などの集落が栄えていった。さらに清流には鮎やアマゴ、鰻などの魚が生息し、ヤナ漁、すくい漁、夜ぶり、はえ縄などの漁法が生み出されていった。天然石と急流に育まれた鮎は格別な味だったという。

WOOD JOB 神去なあなあ日常

 そんな自然豊かな山村の生活を一変させた出来事は大正11年に起こった。電気の送電が始まったのである。これにより美杉の生活は大いに快適となり、電話、バス、国鉄の開通は、近隣地域との距離を短くし、人の往来はもちろんのこと、物流まで活発となった。それまでの自給自足のような生活から脱出することができたのである。古来から美杉は山奥深く閉ざされた僻地ではなく、賑やかな一面も持っている。それは宿場町としての顔である。とはいえ、伊勢本街道が整備され宿場町として栄えたのは江戸時代に入ってからである。もっとも、街道そのものはもっと古くから通っていた。
 飛鳥・奈良時代には参宮中街道と呼ばれ、紀州街道、熊野街道にも通じていた。飛鳥京、藤原京を出て、榛原を経由して名張へ出て、興津から飼坂峠を越えて多気入りする。櫃坂峠を下り飯南郡に入り、仁柿、横野、大石、相可から朝久田、上地、川端を経て山田へ行くというルートであった。紀州や熊野へは相可から分岐していた。江戸時代になり、幕府による宿場制度が始まってからお伊勢参りはピークとなり、多気の宿はたいそうな賑わいを見せたという。明治の中頃になるとお伊勢参りも下火となり、代わって宿を求めるのは商人たちであった。美杉は流通には不便な山間部に位置したため、商人たちは泊りがけで商売をしにやって来ていた。それも昭和初期までで、戦中・戦後の物不足に伴い、多くの宿屋が廃業し、現在まで営業を続けているのは1軒もない。
 宿場町であったことで、街道筋にはいろんな職人がいた。古記録によれば、多気、興津、石名原の各宿場には、足袋屋、仕立屋、鍛冶屋、飴屋、桶屋などがあったという。最近まで漆、加冶屋、屋根葺き、茅、桶、籠、下駄、石工、木地師などの職人がいた。現在でも炭焼き、造酒屋、菓子などの職人が残っている。山深い地味な自給自足生活の土地だと思ったら、意外にも商業活動の活発なところであったことに驚く。現在では地域マガジン「T-age(ティーエイジ)」を発行し、多気での豊かな暮らしぶりを積極的に観光客へアピールしている。平成23年には映画「WOOD JOB 神去なあなあ日常」のロケ地となり、今でもロケ地ツアーとして大勢の観光客が美杉入りする。近年では田舎暮らしを求める人も少しずつ増加しており、美杉は定年組みから注目されている理想郷となっている。

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 回廊展示を一回り見て、中央部へと階段を降りると四方に展示ケースが置かれ、太古の化石や国司北畠氏に関する資料が展示されている。2000万年前の貝の化石が発見されているが、当時はこの山間地が海だったことを物語っている。下之川古墳(古墳時代)は雲出川の最上流に位置し、美杉町で確認される唯一の古墳である。大きさや墳形については不時発見(水田の畔作りの際に発見されている)のため不明瞭であるが、出土した副葬品の須恵器・土師器から7世紀前葉の時代と考えられている。また西ノ手遺跡(縄文時代~鎌倉時代)は雲出川上流(奥津)左岸の山裾に位置し、美杉南小学校建設に伴い発掘調査が行われた。建物跡から井戸や石積みが見つかり、併せて大量の食器も発見された。古いものでは縄文時代後期の土器や擦り石が発見されている。縄文時代の古くからこんな山奥に人が住んでいたことに驚かされるが、やはり関心が高いのは伊勢国司に関する資料だ。特に古地図はとても興味深い。

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 伊勢國司北畠氏多氣城下町俯瞰図(大蓮寺蔵・III類)は作成年代が不明なものの六田館跡を表現する唯一の絵図であることから何かしら制作時期の手がかりになるのではないだろうか。北畠氏館跡は現在の北畠神社にあたる。昭和時代に実施された発掘調査の結果、建物の礎石や石垣、皿や茶碗などが出土した。中でも七官青磁水鳥香合は中島誠之助のお墨付き入りで素晴らしい。中島の鑑定によれば、明の時代に浙江省の龍泉窯で作られたもので、北畠氏が中央との交流を証明する貴重な資料と記している。惜しむらくは、三重県総合博物館の展覧会へ貸し出しており、実物を見ることができなかったことだ。

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 多氣之圖(本居宣長記念館蔵)は江戸時代中期の写しで、折図の封には宣長の自筆で「多氣之圖」と書かれている。宣長は旅の途中に多気で見た北畠の家臣帳に先祖の名「本居惣助」があることに触れ、多気を自らの縁の地と考えていたことが『菅笠日記』に書かれている。飼坂峠から多気入りし、下多気を経由して白口峠から松坂へ向かった行程が記されており、現在でも追体験できることが嬉しい。

(略) つかへし人々の名どもしるしあつめたる書一巻あり。ひらきて見もてゆくに。かねてきゝわたる人々。又は今もこゝかしこに。そのぞうとてのこれるがせんぞなど。これかれと多かる中に。己が先祖の名【本居宗助】も見えたり。かの絵図に。その家も有やと。心とゞめてたづね見けれど。そは見あたらざりき。かくて此家にかたらひて。くひ物のまうけなどしてゆく。さるは伊勢にまうづる道は。こゝよりかのひつ坂といふをこえて。南へゆくを。(略)

 同じ多氣之圖でも個人蔵の資料(作成年代不明)は少し表現が異なり、北畠氏館部分は簡素に描かれているものの、霧山城などの山城は、大規模に誇張されなおかつ近世城郭のように描かれている。城下町も道や屋敷の区画を直線的に描き、近世城下の絵図に近い表現が見られる。この時代の資料なのであろうか、絵図の下には茶入れ、軍扇、兜、陣笠、弓が展示されている。最後の一角には北畠氏に関連する資料が展示されている。『職原鈔』『勢陽雑記』『伊勢国司記略』など北畠氏研究には欠かせない資料が並ぶ。『勢陽雑記』や『伊勢国司記略』の刊本は現在でも古書で入手可能である。
 また鳥屋尾(とやのお)儀左衛門による「先祖覚書」資料が展示されている。先祖の鳥屋尾左馬充は多気(伊勢)国司譜代の家臣で八世具教(とものり)の近習役を務めたと書かれているところから、おそらく鳥屋尾満栄のことではなかろうかと思われる。具教の父晴具(はれとも)の頃から仕える宿老で、智勇兼備の名将といわれ、伊勢国大湊の代官を歴任した。信長に屈し茶筅丸(後の織田信雄)を迎え入れ仕えたこと、織田家亡きあとは鳥屋尾石見守らは中国(地方)へ流れ果て、具教の舎弟具親(ともちか)が亡くなると家来衆ともども浪人となったこと、左馬充の孫の与助は毛利に取り立てられたものの素行が悪く諸国を流浪したこと、などなど事細かく先祖の成り行きを列挙している。

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先祖覚書

一 私先祖者多氣國司譜代士而御座候国司殿織田信長公
  之以謀略天正四年悉ク滅亡仕由私ゟ五代以前鳥屋尾
  左馬充と申者国司中納言具教卿近習役相務大河内
  籠城ニ付討死仕由左馬之充兄石見守儀御本所國司
  具房卿家老役仕則織田信雄卿家督相續之節
  信長公為御意信雄卿江被属候由國司家断絶
  之砌具房卿尾州江流罪舊臣共多織田家江相
  勤又ハ討死仕由相残ル者共又後之具親卿ヲ取立
  両度迄旗を以所〻雖楯籠依無勢不送本意
  終中國江被越申旧臣共仕候其砌石見守中國ニ而
  相果申候左馬之充世忰源兵衛国司落去之後由緒御
  座候ニ付竹原村へ立退暫蟄居仕居申候源兵衛
  世忰与助甚之氶と申弐人御座候与助儀先祖之者とも
  相尋申度存甚之丞ハ竹原村ニ残シ至中国へ罷越候得共
  具親卿御死去以後家来方〻へ牢浪仕与助儀毛利
  家ニ而小知申請身上相深候へ共与助立不性短急ニ御
  座候ニ付家中沙汰悪敷候故立退武蔵と易名仕
  諸国牢浪いたし一生不幸ニ而竹原村へ立帰還俗仕
  源兵衛と申候然共若年ゟ農業仕調不申候故渡世
  送り兼候由世忰壱人御座候名ヲ久四郎と申候源兵衛相果
  申時分久四郎若年ニ御座候ニ付岡田三郎右衛門ヲ預置申別而
  應意ニ仕其後寛永年中当国地士之内ニ而山家同心三拾人
  御抱被為成候時分三郎右衛門取持ニ而右三拾人之内へ入源兵衛と
  名を改相務居申候得共病氣ニ付御奉公相勤り不申
  御扶持方指上ケ申候其子孫竹原村ニ罷在申候
(後略)

 鳥屋尾義左衛門がいつ頃の人かは不明だが、北畠具豊(茶筅丸元服時の名)を織田信雄と表記したり、信長に対して「公」という官位付きで表記しているところから、近世も中期以降まで時代が下るのではないかと思われる。とはいえ、このような資料も北畠氏研究には欠かせない貴重な記録となる。またこのコーナーにも多気城下絵図(館蔵:作成年代不明)が展示されており、北畠氏館詰城と霧山城の城郭を区分けして描かれていたり、六田館部分には「藤方一之守」「二階堂之櫻」との表記がなされている。また御所(北畠一族の居所)が立体感ある絵画的な表現で描かれている。

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 絵図の前には伊勢国司北畠氏の始祖となった顕能の像が展示されている。『神皇正統記』を書き表して有名な北畠親房の三男で、父兄とともに伊勢国へ下り国司に任じられた後、多気を拠点に南朝の支柱として、足利高氏を筆頭とした武家政治擁護派(後の足利幕府)に対抗した。ちょうど南北朝時代の話しであるが、「南北朝の戦い」とは南朝と北朝に分かれた朝廷同士の争いではなく、天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と武家政治を推し進めようという新しい力の戦いだった。ちなみに兄の北畠顕家(あきいえ)は義良(よしなが)親王を奉じて陸奥国に下向したが、高氏蜂起に際して新田義貞や楠木正成らと協力して一旦は足利軍を九州へ追いやったが、遂には和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち果てた。
 顕能像の横には絵図が展示されている。異本北畠家古地圖(津図書館蔵)は天保二年(1831年)の作成で、注記から地元の庄官である田上源五郎が他の絵図と比較しながら作成したことがわかる。町屋部分では建物を絵画的に表現しており、御殿(当主館)は絵図中央から随分と左に描かれている。そのため館から下流域は余裕のある描写に対して、上流域はかなり圧迫された表現となっている。

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 展示ケース内の最後には伊勢国司北畠氏家系図が展示されている。北畠氏は村上源氏の流れを汲む名門であり、北畠親房は正応六年(1293年)に生後わずか半年で叙爵されるほどの家柄だった。歴代当主も優秀なリーダーが続いたが、伊勢国司北畠氏の終焉は八世具教の暗殺にあった。最後の国司となった具房(ともふさ)の行く末とともに整理してみる。
 永禄六年(1563年)、具教が35歳で隠居し家督を嫡男の具房に相続した。永禄十二年(1569年)、織田信長は伊勢国へ兵を進め、大河内城の戦いで北畠を追い詰めた。しかし一向に落城する気配もなく、籠城すること50日で根負けした信長は和睦を申し入れた。和睦の条件は信長の次男茶筅丸(後の織田信雄)と具房の妹の雪姫を婚姻させ、茶筅丸を北畠氏の養継嗣とさせる事であった。元亀元年(1570年)、具教は出家し不智斎と号し、三瀬谷(現多気郡大台町)に居館を築き隠棲した(三瀬館もしくは三瀬御所)。
 元亀三年(1572年)に元服した茶筅丸は北畠具豊と改名し、田丸城を本拠としたが、具教は実権を具豊に渡すことはなかった。天正三年(1575年)信長は具房を隠居させ具豊を信意(のぶおき)と改名し北畠家十代目当主とさせた。一方、具教は起死回生を図り、武田信玄と密約を交わしていた。しかしこれらの動きは信長の知るところとなり、翌天正四年、信長の命により調略された北畠氏旧臣らが三瀬御所を取り巻き具教をはじめ二人の子(四男徳松丸、五男亀松丸)、家臣14名を殺害した。さらに同じ日に信意は、饗応の席と偽って北畠家臣(長野具藤:具教次男、北畠親成:具教三男)やその一門を田丸城へと呼び出し抹殺した(三瀬の変)。
 命を救われた具房は身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された。幽閉を解かれた直後の天正八年に死去、享年34歳だった。三瀬の変の後、北畠の武将たちは北畠政成が守る多気城(霧山城)に集結し抵抗を試みるが、信長は即座に羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信ら1万5千の兵を送り込み城を包囲した。多気城は焼け落ち陥落し城下は灰燼と化した。ここに九代に渡って繁栄した伊勢国司北畠家はついに滅亡した。信意の伊勢掌握の妨げになっていた具教・具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠氏簒奪が完了した。華々しい家系図を眺めると虚しさを感じてしまう。

 ところでこの家系図の中でただ一人官位を持たない人物が描かれている。具教の実弟の具親である。具親は晴具の三男として生まれたが、早くから僧侶となり奈良の興福寺東門院院主の地位に長らく就いていた。しかし三瀬の変について具教家臣の芝山出羽守秀定の子・芝山小次郎秀時から聞き知ると、北畠宮内少輔具親と名乗り北畠家の旧臣(芝山・大宮・鳥屋尾・家木・峯・森など)をかき集めて、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡の森城で挙兵したが、信意軍によって鎮圧された。一旦は安芸の毛利輝元を頼って備後の鞆に落ち延びたが、本能寺の変を聞き知ると再び五箇篠山城で再挙した。しかし再び信意軍に敗れ伊賀に落ちたという。天正十二年(1584年)に松坂城主の蒲生氏郷のもとに客臣として迎えられるが、2年後に病没している。
 滅亡した伊勢国司北畠家であるが、江戸時代に入ると北畠本家が復活した。宗家としては残らなかったが、中院通勝の子・親顕が北畠家の名跡を継承したり、明治期に入ると久我建通の子・通城が分家して北畠姓に改姓している。また木造氏に養子に入った具教の実弟の木造具政の子孫は木造氏として存続している。北畠氏の血脈は細々ながら現代に繋がっているのだが、とても入り組んだ複雑な経緯があるため、まだまだ調査が必要とされる。
 満たされた気持ちで受付にて多気城下絵図と地域マガジンを購入した。北畠氏について冊子はないのか、なければ市販されている書籍を紹介して欲しいと訊ねると、向かい側の会議室に案内され収蔵された書籍を見せてくれた。ほとんどが現在入手が難しそうな古書ばかりであったが、地元の郷土史家の小林孚(こばやし かえり)氏(故人)が自費で作った資料集を好きなだけ見せていただいた。小林氏は会社へ勤めるかたわら、休日になると美杉周辺をはじめ、北畠氏ゆかりの各地へ出かけては、古文書を写し取り整理してテキスト化してきた。20代から60代にかけてのことだという。『多藝國司史料』の表紙には、「非売品 持出禁止 コピー禁止」と書かれ、奥付には以下のように書かれている。

 「歴史史料」も個人では拝見できない。古文書は著作も著作権も期限切れであるが、写本でも所有権があり、写真やコピーでも「所有権」があって個人では利用できない。私は、アメリカのコンピューター特許から派生する「拡張権利」だと思っている。出版拒否の理由は金儲けをするからだとか。史料の解読・出版では、新進歌手の誰かのレコードのようには売れない。特に敗北滅亡國司の史料では百部売れれば良いところである。敗戦国だから、戦勝国の仰せには従わなければならないが、真実を追求する歴史資料まで本国に追随は理解できない。それで、ノートとして数冊をパソコン印刷し、図書館や歴史愛好家に無料贈呈した。それも三十年近い歳月が経って、ようやく史料集が貧弱なまま終わりを迎えた。
(中略)
 今一五〇〇年代の史料集を、不満足ながら終了したい。古文書集は割高であり、利用できる史料は一冊で数枚以内である。『大乗院寺社雑事記』『園太暦』等の多量は望めない。それでも「あることは助かる」。この貧弱な初心者の集積史料集が後考の参考になれば無上の喜びである。振り返れば松阪図書館で初見した先輩のメモが、私の好奇心を刺激したように、この貧弱な『北畠國司史料叢書』が、後考の刺激剤になることを祈って原を終わりたい。

 自分の手元にある700頁を超える書籍が小林氏の汗の結晶だと思うと、ぞんざいな扱いはできない。近世のくずし字を全て解読し活字化されている。何と素晴らしい会社員かと思ったら、佛教大学を卒業し文学士であり工学士でもあった。小林氏のような郷土史家の存在こそ地域の歴史解読もしくは文化形成にはなくてはならない存在だと思う。


<参考>

『伊勢國司記略』齋藤德藏
『多藝國司史料1500年代ノート』小林孚

美杉ふるさと資料館
所在地  三重県津市美杉町上多気1010
開館時間 9時〜17時(入館は16時まで)
休館日  毎週月曜日(ただし祝日・休日の場合は翌日)、12月28日〜1月4日
入館料  無料
問合せ  059-275-0240

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