極楽寺と薬師堂

2017年6月

 有間野には3つのお寺が存在する。有間野の極楽寺、神原の浄源寺、栃川の称念寺である。それぞれ有馬野村、神原村、下栃川村と呼ばれた時代に建てられたお寺である。そのうち極楽寺は天正元年(1573年)に江州(近江国)から有馬野村字高山へ移った長井成孝の子・成知の開基である。「開基」とは寺院の創始に当たって必要な経済的支援を与えた者、もしくは在家の実力者(大旦那)を指す。これに対し類義語の「開山」は寺院を開創した僧侶を指す。
 成知は浄土宗に深く帰依し、湧泉唯心和尚を師として授戒を受け、覚誉浄本という法名を授かり、唯心和尚の草庵に替えて一寺を建立した。本尊には阿弥陀如来坐像を安置し、仏器なども全て寄進したという。輝誉湧泉唯心和尚を開山に仰ぎ、山号を浄本山、院号を唯心院、寺号を極楽寺と名付け、長井家の菩提寺とした。通常は極楽寺と呼んでいるが、正式名称は浄本山唯心院極楽寺となる。極楽寺の本山は京都の華頂山知恩院大谷寺になる。
 本堂は明治32年、第二十八世融誉円応上人の時代に再建された。本尊の阿弥陀如来坐像をはじめ、銅造釈迦如来坐像、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像など多くの仏像・仏画などが納められているが、「黒仏(くろぶつ)さん」の名で呼び親しまれている木造阿弥陀如来立像は、平成12年に飯南町の有形文化財に指定されている。
 檜の寄木造りで像高は98.4センチ、南北朝時代の造立と考えられている。像の表面に布を貼り彩色されていたが、長年の線香や抹香の煙を受けて黒くなってしまったところから、「黒仏さん」の名で呼ばれるようになった。
 もとは松坂鍛冶町の刀工平井家の持仏であったが、いつの頃か大河内の九連寺の住持が古仏を見て引き取られ祀られた。後にこの僧が極楽寺に移られた時に持参されたと伝わる。『脇本尊略縁起』にはことの様子が詳しく記されている。

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 阿弥陀如来像は寛永の頃に松坂鍛冶町に住む平井長助という者が、若い頃より菩提心の志深く阿弥陀如来の他力本願を信じて、昼夜を怠らず10年に及び念仏を唱えた仏様である。寛永二十年(1643年)、長助が37歳の時に一人の僧侶が夢の中に現れ、「朝熊岳本堂の天井に三尺余の阿弥陀如来像が安置されている。これは汝に有縁の御仏である。」と告げた。
 夢から覚めた長助は妻に話し、仏勅を喜び夜が明けるのを待ちかねて、息子の長右衛門と共に朝熊岳の明王院へ赴き、住持に夢のお告げを話した。住持は師匠の頃から60〜70年そのような話しは聞いたことがなく、不思議なことだと本堂の天井を破って上がっていくと古い櫃を見つけた。
 蓋を開けてみると、はたしてお告げのいう三尺余の阿弥陀如来像が納められていた。蓋の裏には所以が記してあり、阿波国から氏神の信託により送られたものという。「此浦に阿弥陀如来の尊像上り給うべし。あの仏を是より伊勢の国へ贈り奉るべし。然らば此浦繁昌し猟あるべし。」浦人たちは不思議と思いながらも信託どおり伊勢の国へ送ったという。
 伊勢国は唯一神道なる故に朝熊山へ送られた。如来より長助に授けさせる御仏というのであば、只今より其の方へ渡すこととする。信心を怠るではないと長助へ下された。長助は衣を借りて如来像を息子の長右衛門に背負わせ松坂へ帰り、程なくして京都へ上り御光台を再興し、この時に玉眼を入れたという。その後、長助の家に安置し夫婦共々昼夜念仏を怠らず極楽往生を願った。

 日誉卓弁和尚という僧が伊勢寺村横滝寺へお越しになった折り、長助と懇意となり浄土布薩の一大事を伝授され、長助夫婦はそろって仏門に入った。長助は根誉浄善、妻は善誉清心と戒名し、毎日三万遍の念仏を心がけた。また他人の往生の節には臨終を勧め正念に往生された者は300人余になる。根誉浄善(長助)は延宝三年(1675年)二月、善誉清心は同年七月に大往生をとげた。ちなみに、如来が阿波国から朝熊岳へお入りになったのは応永元年(1394年)、長助が霊夢を得たのは寛永二十年(1643年)、剃髪は寛文十二年(1672年)である。

 浄善往生の後、朝熊岳より使僧が参り、御本尊の儀は長助一代のことにてお返しいただくはずと申し上げたところ、息子の長右衛門は、長助の申請には自分も同行し詳しく知っていることを申し聞かせ留め置いた。御本尊は長助の遺言により孫の嘉兵衛16歳の時に朝熊山へ譲るよう申されたが、未だ若年なる故そのまま奉安された。息子の長右衛門は妻とともに松坂近在の寺井村へ移ることになった。この時、御本尊を在家の見苦しい所に安置するのは勿体無く、朝熊山へお帰りいただくべきか共に寺井へお越しいただくかを如来御前で三度籤を引いたが、三度とも寺井村へお越しの札を引いたため寺井村で守り奉った。

 夫婦はともに信心に勤め長右衛門(延誉浄泰)は正徳二年(1712年)、妻は享保三年(1718年)に大往生を遂げた。この時よりまた本尊を松坂へ移し、(孫の)長井嘉兵衛が供養した。嘉兵衛は松坂清光寺二十代真誉上人の弟子となり夫婦共々授戒して、覚誉西岸浄本(嘉兵衛)は享保十八年(1733年)、行誉法室妙意(妻)は宝暦二年(1752年)に往生を遂げた。(『脇本尊略縁起』要約)

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 境内にある梵鐘は再鋳されたもので、旧鐘は檀家である長井氏四世吉成が当山五世光誉和尚の代に寄進されたものである。いつの頃かは不明だが、鐘が破裂し長らく鐘の音を聞くことができなかった。浄本山鐘銘並叙には「聾唖ノ如シ」と記されている。当山十八世の隠誉和尚は、再興の願いを発し檀家にはたらきかけたところ、長井氏末孫らが志を一つにして浄財を投じ、鋳師に命じて寛延三年(1770年)に奉納された。作者の鋳師は辻但馬守藤原吉種(初代)と孫の辻弥四郎秀種(三代)で、向粥見の医王寺の宝篋印塔の作者でもある。鐘楼の奥の壁には手書きの説明板が打ち付けられている。この文章を読むと年を追うごとに檀家の数が減ってきて、台所事情の苦しいお寺の様子がうかがい知れる。

かねてより鐘楼堂屋根老朽化し雨漏りも随所にみられ修復急を要することになっていた。折から当時中組世話人森本善夫氏これを心痛し自から発起人となり屋根葺き替えを発願す。森本氏に感謝の意をこめ後世のために誌しておくものなり。
 平成十一年霜月九日

 境内にはさらに薬師堂が建ち、飯南町では最古の建築物とみられている。四間×二間、向拝一間の本瓦葺きで、向拝の虹梁、木鼻、蟇股などに江戸初期の様式がよく表れている。正面の扉を見て少し違和感を感じたのは、扉の高さが開口部の大きさよりも小さい。お寺の話によると、昭和期に木材が腐食して大きく傷んだため、扉全てを新調するにはお金がかかるし、まだ使える部位もあるため勿体無いとのことで、傷んだ部分を削除し新たに横木を設けて開閉可能とした。そのため下部空間を塞ぐための衝立が新調された。
 堂内には薬師如来坐像が安置され手前には日光・月光の両菩薩立像を配置する。全て室町時代の造立であるが、両菩薩立像は傷みが激しくなったため近年補修を施して眩いばかりに輝いている。薬師如来坐像の左右には十二神将が配され、こちらは江戸時代の作と伝わる。

 堂内手前左側には賓頭盧尊者像が置かれている。像の塗装はかなり剥落しており、村民から常に撫でられてきたのかもしれない。古老が嬉しそうに話すのは、親の言うことを聞かない小さな子供を賓頭盧さんのところへ連れていくと、誰もが必ず大泣きをしたという。子供にとっては賓頭盧さんは閻魔大王よりも怖い存在だったようである。


(薬師三尊像)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

◆薬師如来

 梵名はバイシャジヤ・グル(Bhaiṣajya-guru)、種字(01)は「バイ」(भै bhai)で表す。はるか東方の浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)に住まい、この世の病気を癒してくれる仏様として信仰があつい。そのため、薬師瑠璃光如来とか大医王仏とも呼ばれている。修行中に十二の大願(02)をたて、疾病治癒、生存真当、生活安隠などを誓い仏となったと説かれる。
 像形については古くは施無畏与願印(せむいよがんいん)(03)を結ぶ通仏相で、釈迦如来との区別が困難であったが、後に右手は
施無畏印、左手に薬壺(やっこ)を捧げる象形となった。左側に日光菩薩、右側に月光菩薩を脇侍とする三尊像もあり、さらに十二の大願にちなんで眷属(04)として十二神将が配される。

(01)種字
 密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)で、種子真言(しゅじしんごん)ともいう。
(02)十二の大願
 光明普照(自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く。)
 随意成弁(仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる。)
 施無尽仏(仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す。)
 安心大乗(世の外道を正し、衆生を仏道へと導く。)
 具戒清浄(戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける。)
 諸根具足(生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす。)
 除病安楽(困窮や苦悩を除き払えるよう援ける。)
 転女得仏(成仏するために男性への転生を望む女性を援ける。)
 安心正見(一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける。)
 苦悩解脱(重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける。)
 飲食安楽(著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く。)
 美衣満足(困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す。)
(03)施無畏与願印
 右手を施無畏印、左手を与願印にした印相。施無畏印とは、手を上げて手のひらを前に向けた印相で、字義通り「恐れなくてよい」と相手を励ますサインである。与願印とは、手を下げて手のひらを前に向けた印相で、相手に何かを与える仕草を模したものである。施無畏与願印は如来像の示す印相として一般的なもので、釈迦如来にこの印相を示すものが多い。
(04)眷属 
 眷愛隷属(けんあいれいぞく)もしくは眷顧隷属(けんこれいぞく)の略称で、眷属神としての眷属は、神の使者をいう。多くはその神と関連する動物の姿をしている。


◆日光菩薩・月光菩薩

 日光菩薩の梵名はスーリヤ・プラバ(Sūrya-prabhā)、種字は「ア」(अ a)。月光菩薩の梵名はチャンドラ・プラバ(Candra-prabha)、種字は「チャ」(च ca)で表す。『浄瑠璃浄土標』には、日光菩薩は左手に日輪を右手に蔓朱赤花をとり、月光菩薩は左手に輪を右手に紅白蓮華をとる二臂像(にひぞう)(01)を示している。
 瑠璃光浄土にいる菩薩の中では最上で、太陽と月光を象徴し、「日光遍照・月光遍照」もしくは「日耀・月浄」とも呼ばれる。元は薬師如来の子どもの「日照・月照」である。

(01)二臂
 臂は「ひぢ」のことで、二臂は二つの腕という意味になる。一面二臂は一つの顔と二つの腕という意味。三面六臂、八面六臂などにも使われる。

◆十二神将

 薬師如来の眷属であるところから薬師十二神将と呼ばれ、十二薬叉大将ともいわれる。薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、十二の方角を守るという。また十二支が当てがわれるが、元来は十二支とは関係がなく、後世に昼夜十二時の護法神として十二支の動物を冠にいただく神像が造られるようになった。十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王があり、各神将はそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を従え、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているという。

 漢名   読み      梵名         種字       本地仏  持物(じもつ)十二支

毘羯羅大将(びから)  ヴィカーラ(Vikarāla) 「バク」(भः bhaḥ)   釈迦如来   三鈷杵   子
招杜羅大将(しょうとら)チャトゥラ(Catura)  「バン」(वं vaṃ)    大日如来   剣     丑
真達羅大将(しんだら) キンナラ(Kiṃnara
)  「アン」(अं aṃ)    普賢菩薩   宝棒宝珠  寅
摩虎羅大将(まこら)  マホーラガ(Mahoraga) 「フリーヒ」(ह्रीः hrīḥ) 大威徳明王  斧     卯
波夷羅大将(はいら)  バジュラ(Pajra)     「マン」(मं maṃ)   文殊菩薩   弓矢    寅
因達羅大将(いんだら) インドラ(Indra)     「ハ」(ह ha)     地蔵菩薩   三叉戟   巳
珊底羅大将(さんてら) シャンディラ(Śaṇḍilya) 「トラーハ」(त्राः trāḥ) 虚空蔵菩薩  法螺貝   午
頞儞羅大将(あにら)  アニラ(Anila)      「フリーヒ」(ह्रीः hrīḥ) 如意輪観音  矢     未
安底羅大将(あんてら) アンディーラ(Aṇḍīra)  「サ」(स sa)     観音菩薩   宝珠    申
迷企羅大将(めきら)  ミヒラ(Mihira)     「フリーヒ」(ह्रीः hrīḥ)  阿弥陀如来    独鈷杵   酉
伐折羅大将(ばさら)  ヴァジュラ(Vajra)     「サハ」(सः saḥ)    勢至菩薩     剣       戌
宮毘羅大将(くびら)  クンビーラ(Kumbhīra)  「ユ」(यु yu)     弥勒菩薩     剣     亥

◆賓頭盧尊者

 賓頭盧(びんずる:ピンドーラ・バーラドヴァージャ Piṇḍola Bhāradvāja)は釈迦の弟子の一人で、千阿羅漢を有する十六羅漢の第一である。博識で慈悲深く十善を尊重し、阿羅漢果(01)に至って神通力を得たという。異論反論を許さないライオンのような説法であったことから、獅子吼第一と呼ばれるようになった。

(01)阿羅漢果
 阿羅漢に到達した境地で、この境地に至ると迷いの世界を流転することなく涅槃に入ることができるとされる。

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 正面に掲げられた額には難しい文字が浮彫りされている。昭和の時代に大学研究者らが近隣の寺院を視察に回っていた最中に極楽寺に立ち寄り、薬師堂を見るなりたいそう古い様式を残しており貴重な建造物だと感心された。お寺としてはお金がないため修繕もままならず、長年にわたり痛みが激しくなる一方に恥ずかしく思っていたという。そんな折、この堂宇に命名され額を掲げることになったという。
 薬師堂の裏側には墓地が置かれ、檀家と歴代住職の墓石が祀られている。開山輝誉唯心上人から二十九世正誉学応上人までの墓石があるのだろうか確認はできないが、たくさんの墓石が並んでいる。
 墓地の一画には記念碑が建てられており、由緒が刻まれている。それによると、有間野中組の墓地は狭く、火葬場には不備を感じており、当地出身の結野儀三郎さんの篤志の寄付により昭和17年6月に面目を一新竣工した。これを記念して建立する。ということである。
 この薬師堂は元は有上地区にあった。南無阿弥陀仏の板碑がある上ノ原への旧登り口から有上集会所までが薬師堂の土地であり、そこに建てられていたのだが、時代の経過とともに寂れてしまい、極楽寺への移転となった。と寺の奥さんは話される。
 該当する場所を改めてよく観察してみると上ノ原のばんばからの傾斜がそのまま一之瀬川へと落ち込み、とても堂宇が建つ平場が無い。逆に登り口の手前には堂宇が建つ十分な広さの平場がある。長井家に伝わる有間野村古地図で確認すると、この平場は畑地として描かれており登り口の道は一之瀬川沿いを通っていたことがわかる。
 「極楽寺の薬師堂は薬師橋の袂にあった」と古老から聞いていたが、現在の薬師橋との位置関係の検証で場所の推定に苦労してきたが、古い時代の橋は現在の橋の位置よりも少し上流に架かっている。仮に平場に薬師堂が建っていたとすると、確かに橋の袂に建つ位置関係が成立する。
 薬師堂の土地の範囲との齟齬が残るが、地形から判断すると妥当と思われる。阿弥陀仏の板碑と無縫塔は薬師堂移築の際に現在の場所へ移されたのか、元々祀られていたのかどちらかであろう。また、古い時代の橋が「薬師橋」と呼ばれていたのかという確証は得られていないので、聞き取り調査が必要とされる。
 薬師堂が移転された境内の場所には元は地蔵尊が祀られていた。高さ三尺の一木造りで、室町期の作とみられるも江戸期の修復が多く判然としない。小野篁作と伝わり長井家六代命成の妻の念持仏で、享保三年(1718年)に一丈二尺四方の堂宇に安置されていた。行き場を失った地蔵尊は本堂に奉安され厨子に納められ、毎年8月24日に御開帳される。


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 境内の駐車場には毎年美しい桜が開花する。様々な種類が植樹され、比較的長い期間を楽しむことができる。これはお寺の奥さんの趣味で、少しでも長い期間で桜を楽しみたいという想いから、苗を買い求めた結果である。ヨウコウザクラに始まり、カンヒザクラ、ジュウガツザクラ、ウコンザクラ、ソメイヨシノ、カンザン、ヤマザクラ、シダレザクラ、キクザクラなどが順番に美しい花を咲かせていく。
 桜の名所として、有間野の歴史として、少しでも多くの人に知っていただきたく情報発信していきます。と話したところ、お寺の奥さんからは、「あまりそういうことには関心がなく、檀家のために寺を守るだけ。そもそもこの寺は長井家の菩提寺です。」という返事が返ってきた。思いもよらない言葉に、心に突き刺さる思いであった。

<参考>

『飯南町史』
『社寺建築の工法』佐藤日出男
『写真・図解 日本の仏像』薬師寺君子
『日本石仏事典』庚申懇話会編

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