有間野神社

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2017年6月

 <有間野神社は八王子社>

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 有間野には有間野神社が鎮座する。じげんじ山の麓に位置し、駐車場を確保できないために道路を拡張し駐車スペースを設けている。車を停めて境内へ入ると神殿の後ろ側から入ることになる。神社の正面入口となる鳥居は山側に建てられている。不思議な造りだなと思っていたら、現在の道路は最近になって整備された新しいもので、本来の道は山側を通っていたのだという。
 舗装という意味では確かに昭和から平成にかけての最近なのかもしれないが、道そのものは長井家に伝わる江戸後期と思われる古地図を見る限り、しっかりと通っている。人ひとり程度の地道だったとしても神社の北側の道が主で、南側へ回り込む道は現在残る道幅と変わらないようにみえる。境内の周辺には石積みで通路が確保されており、往時の通路の名残なのかもしれない。
 正面には石段が設けてあり、過去には山の麓に何かあったのだろうか。60センチほど高くなっているので、ここから鳥居越しに拝殿を見ると、神社を見下ろすような視線で落ち着かない。有間野神社と刻まれた社号標は昭和15年の奉納で、鳥居の奥に奉納された小振りの灯篭には宝永二年(1705年)と刻まれ、奉納者は長井利兵衛である。長井氏は極楽寺を開基した有間野長井氏二世の成知から利兵衛を号しており、代々その名を継いできたが、現在のご当主の祖父の時代より利兵衛を名乗ることは止めてしまった。
 青銅製の鳥居をくぐると正面にコンクリート製の拝殿がある。拝殿前に掲げられた神額には「八王子」の文字が、奥に掲げられた神額には「有間野神社」と書かれている。神殿に掲げられた神額にも「八王子」の文字が見える。また、祭神の名が書かれた額も掲げられており、それによれば、天照大神と須佐之男命とが誓約(うけひ:神様に判断を求めること)を行ない、須佐之男命が天照大神の勾玉を洗ったところ、五男神が生まれ、天照大神が須佐之男命の剣を洗い噛み砕いて吹き出した時に三女神が生まれ、その他の三柱の神を合わせて十一柱の神様をお祀りしているという。
 神殿の左側西隣には橿原神宮遥拝所の石柱が建ち、右手東側の境内隅には宮城遥拝所・神宮遥拝所の石柱が建つ。春・秋の大祭の時には、神殿に参詣し次いで宮城・神宮遥拝所、橿原神宮遥拝所の順に参詣する。東側に広がる境内から拝殿・神殿を見ると、拝殿はコンクリートの舞台ではあるものの、神殿の石垣は大きな石で構成され、小さな町の神社としては立派な佇まいだと感じる。

 周囲を見渡せば、巨大な杉の木が立ち並び悠久の時間の流れを感じる。境内の北西隅にはマップ調査の時に初めて知ったオオツクバネガシ(ブナ科)の木が立っている。樹高は20メートルを超え、幹周りは3メートルを超える樹齢300年ともいわれる堂々たる巨木である。

 大正2年に作成された神社詳細図を眺めて見ると、拝殿・神饌殿が増築された他に入口周辺が変わっている。明治36年に奉納された石鳥居は入口へ移され、昭和46年に奉納された青銅製の鳥居が新たに建っている。奉納者の森本一郎氏は地元の名士で、林業において地元に多大な貢献をされている。手水鉢は入口近くに移され、6基の石灯篭の詳細は不明だが、宝永二年奉納の灯篭と無銘の灯篭が置かれている。その他、昭和15年奉納の社号標と橿原神宮遥拝所、宮城遥拝所・神宮遥拝所の石柱が追加されている。
 有間野神社は氏神として長く住民から敬われ、明治5年に村社となる。前年の5月には太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により近代社格制度が制定されている。明治43年に境内社の稲荷社、中山の浅間社、上出の山神社と合祀してそれまで呼ばれていた八王子社から有間野神社へと名称が変わった。
 天正五年(1577年)の有間野合戦の際に社殿が焼き払われ、由緒旧記など全てが失われ創祀については判らないが、享保十一年(1726年)の祝詞、天保十四年(1843年)の略歴ほか、文久三年(1863年)、明治、大正の祝詞や書付がかろうじて残されており、早くから八王子社として信仰されていたことが伺える。

<八王子社の由緒>

 6世紀半ばに仏教が公伝されてから、神道も仏教思想の影響を受け、時代の変化に伴い陰陽道や儒教などが神道の教説に現れてくる。そして日本では一千数百年の長きにわたり神と仏が密接に融合した「神仏習合」という関係にあった。

 ところが、明治維新の神仏分離令によって神道と仏教は無理やり引き離されてしまう。明治新政府は祭政一致を前面に掲げて神仏分離令を布告し、仏教勢力の一掃をはかった。事実上の廃仏令と受け止められ、廃仏毀釈運動が全国に広まった。さらに新政府は、社僧・別当に対して神社内で坊主として振舞うことをやめよと還俗命令を出した。そのため神職への鞍替えができず放逐されたり、僧侶をやめて神職に豹変した者が続出し、その影響は凄まじいものがあった。
 翌年には神祇官制度が千年ぶりに復活し、さらに翌年には大教宣布の詔が出された。国家神道の確立へ向けた政策は、その後も着々と進められ、伊勢神宮が全国の神社の最高位に位置付けられた。全国にある神社は伊勢神宮を頂点に、官社(官幣社、国幣社)と諸社(府県社、郷社、村社、無格社)に分けられ社格というランク付けが行われた。

 各神社には様々な由緒や謂れが伝わっていたが、一村一社制の徹底化により祭神を他の神社に合祀されて廃された神社も多くあった。そのため貴重な民間信仰や独特の信仰形式が失われてしまうこともあった。
現在の有間野神社も粥見神社もこのような歴史の流れの中で今日まで祀られ続けてきたのだが、両神社とも合祀前はそれぞれ八王子社、八雲八柱神社と呼ばれていた。
 八王子社も八柱神社も八王子神社のことで素盞嗚尊の八柱の御子神を祀る神社である。その起源は八王子権現にある。八王子権現とは牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗の山王神道(延暦寺で生まれた神道)が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王の眷属である8人の王子を祀ったことに始まる。

 京都は山科盆地の東に位置する音羽山の支峰である牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と表記され、家の主が神々に初穂を供える山として信仰されてきた。山頂に祀られた牛尾宮は、延暦寺の鎮守であった日吉山王権現21社のうちの一つで、山王の王子である8人の眷属神が八王子権現として祀られた。また、「鶏口牛後」の故事に倣い、牛の尾を嫌って、祇園精舎の守護神である牛頭天王が、頗梨采女(はりさいにょ)との間に授かった8人の王子を眷属神として祀ったともいう。

 東京の八王子市では、延暦十三年(913年)に華厳菩薩妙行が深沢山(現在の城山)の山頂で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れたことが因縁で、延喜十六年(916年)に深沢山に八王子権現を祀ったと伝わる。王子たちは八方位の暦神に比定され、太歳神(総光天王)、大将軍(魔王天王)、太陰神(倶魔羅天王)、歳刑神(得達神天王)、歳破神(良侍天王)、歳殺神(侍神相天王)、黄幡神(宅神相天王)、豹尾神(蛇毒気神天王)の8人は八将神ともいわれている。

 これが、明治の神仏分離令に伴い、牛頭天王と習合していた素盞嗚尊と天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変化した。それぞれ、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命となる。
 「習合」とは難しい言葉だが、様々な宗教の神々や教義などの一部が同一視される現象のことをいう。地元に伝わる信仰と新たに伝わる信仰が接触した場合に、類似する要素がいくつかあると、片方に取り纏められたり、名前を併記したりと、様々な習合が現れる。時には変容が生じた側が異端視されることもあり、それが元で廃れてしまうこともあるが、正統か異端かは相対的なもので、むしろ抵抗者への蔑視としてのレッテル貼りとして「異端」という言葉が用いられる。

 明治元年三月二十八日に神祇官事務局は以下の通達を出した。

神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事

 権現と牛頭天王が名指しされているのは、神仏分離政策にとって最も危険視されていたことに他ならない。権現は、例えば八幡権現が八幡大神と名称を変更することで存在を認められたが、牛頭天王は、「天王=天皇」という名称に問題があってかその存在を否定され、抹殺されることとなった。

(牛頭天王と八王子)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

【牛頭天王:ごずてんのう】

 京都の祇園社(現八坂神社)の祭神で、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともに素盞嗚尊の本地ともされた。『祇園牛頭天王御縁起』(京都大学付属図書館蔵)によれば、須弥山の半腹にある豊饒国の武答天皇の太子は、七歳にして身の丈が七尺五寸、その上には三尺の牛の頭が乗り、赤い角がある。父は位を太子に譲り、牛頭天皇と名付けた。その姿ゆえに近付く女人もなく酒浸りの日々を送るようになった。
 そんな牛頭天皇を慰めようと公卿が山野海辺に連れ出すと、山鳩が飛んできて后をお迎えするために来たことを告げた。大海に住む沙掲羅龍王の第三女・婆利采女を后とすべく案内するという。
 旅の途次、泊まる宿を求めて古単将来という長者に牛頭天皇自らが申し出たが、慳貪な古単はこれを邪険に断った。牛頭天皇は大いに怒り、他の家の宿を求めた。貧しい家であったが、新しい茅萱筵を差し出し、粟飯を振る舞った。明けた翌日、牛頭天皇は感激し名を問えば、蘇民将来と答える。牛頭天皇は牛玉(ごおう)と名づく玉を与え、これを持つ者は諸願悉く成就すると宣う。
 龍宮へ赴いた牛頭天皇は婆利采女の宮に入って8年を過ごした。その間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。第一王子を相光天皇と名付け、第二を満王、第三をくまら、第四をとくたつ神、第五を羅じ天王、第六をたつにかん天王、第七をぢ志さう天皇、第八を宅相神せう天王と名付けた。
 豊饒国への帰路、牛頭天皇は蘇民の家を宿所にすると申された。蘇民は願わくば富貴の人となって今一度牛頭天皇がお宿を求めた時は喜ばしいことこの上ない、と常に祈願していたところ思いが遂げられ不思議に思っていたところ、牛頭天皇の御幸があり、蘇民は頭を地面につけて恭敬した。
 牛頭天皇は八万四千の眷属に、古単の家へ行き呪い罰せよ、皆ことごとく蹴り殺せ、と命じた。古単は千人もの法師を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させた。法師の中に片目に傷のある者がおり、居眠りをして経を読まなかったり、酒に酔って経文とは違う文字を読んでしまうなど乱れ、古単の家来は蹴り殺された。
 蘇民将来から古単将来の妻は(娘なので)許してほしいと哀願すると、茅萱の輪を作り赤絹の房を下げ、「蘇民将来之子孫なり」と札を付ければ、末代まで災難を逃れることができる、と教示した。
 また「牛頭天王之祭文」(信濃国分寺)には、初めに牛頭天王、武塔天神、八王子神の名前が列挙され、御神酒を奉献することが書かれている。

維當来年次吉日良辰撰定カケカタジケナクモ牛頭天王武荅天神婆梨采女八王子奉請白言急散共上酒再拝再拝
謹請第一之ヲハ生廣天王ト申
謹請第二之ヲハ魔王天王ト申
謹請第三之王子ヲハ倶摩羅天王ト申
謹請第四之王子ヲハ達你迦天王ト申
謹請第五之王子ヲハ蘭子天王ト申
謹請第六之王子ヲハ徳達天王ト申
謹請第七之王子ヲハ神形天王ト申
謹請第八之王子ヲハ三頭天王ト申
(後略)
 その後には牛頭天王の由来が書き綴られている。
①武荅天神の皇子の牛頭天王には、后が決まらなかった。
②山鳩が飛び来たって、釈迦羅龍王の娘が、天王の后にふさわしいと知らせる。
③天王は、さっそく南海へ旅立つ。
④天王は小丹長者の家に行き、宿泊を願うが、長者は邪険に追い出す。
⑤松林のなかに隠れていると、一人の女性が出てきて、蘇民将来に宿を借りよと教えてくれる。
⑥貧しい蘇民将来は、精一杯の心尽くしで、天王を泊める。
⑦天王は、南海に嫁をもらいに行く途中で、小丹長者に罰を与えることを語る。
⑧将来は、小丹長者の嫁が自分の娘であることを告げ、助けてくれるように頼む。天王は柳の札に「蘇民将来之子孫也」と書いた守り札を持たせる。
⑨天王は龍宮で婆梨采女と結婚し、十二年で八人の王子をもうけ、帰国する。
⑩小丹長者は、家屋敷を堅固に固めるが、天王の眷属に攻撃され、滅ぼされる。

 と、詳細部で異なりはあるものの概ね『祇園牛頭天王御縁起』と同様の内容となっている。いろいろ調べてみたが、武塔天神の皇子がどうして牛の頭なのかという疑問に答えてくれる資料に巡り会えていない。

【太歳神:たいさいしん(木曜星・総光天王)】

 万物の生成をつかさどり八方に影響力を持つ君主的立場とされる。樹木や草に関する性格を持っており、太陽神の在位する方位に向けて樹木・草木を植えることは「吉」であるが、樹木の伐採や草刈りは「凶」とされる。また、訴訟や談判などの争いごとや葬儀・解体などは厄災に遭うとされるが、貯蓄、建築・増改築、移転、商取引、結婚、就職などは「大吉」とされる。仏教における本地仏は薬師如来。
【大将軍:だいしょうぐん(金曜星・魔王天王)】

 古代中国では明けの明星を「啓明」、宵の明星を「太白」と呼び、軍事をつかさどる星神とされた。日本では陰陽道に取り入れられ、太白神や金神や大将軍となった。金気は刃物に通じ、荒ぶる神として暦や方位の面で恐れられた。大将軍は3年毎に居を変え、その方角は万事に「凶」とされ、特に土を動かすことは良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないことから、その方角を忌むことを「三年塞り」と呼ぶ。仏教における本地仏は他化自在天。
【太陰神:たいおんじん(土曜星・倶魔羅天王)】

 男性の「陽」に対して女性の「陰」の性質に嫉妬し、太陰神の在位する方位に向けて、嫁取り、出産など女性に関することは「凶」であるが、学問、芸術に関することは「吉」である。仏教における本地仏は聖観音菩薩。
【歳刑神:さいぎょうしん(水曜星・得達神天王)】

 殺罰、刑殺をつかさどる神とされ、歳刑神の在位する方位に向けて、事業を始めたり移転することは「凶」だが、武器や刃物などの製造や購入、訴訟や争いごとなどは「吉」である。また土に関する性格も持ち合わせているので、動土、種まき、植林などは「凶」となる。仏教における本地仏は堅牢地神。
【歳破神:さいはしん(土曜星・良侍天王)】

 太歳神が在位する方角の反対側の方位に在位するが、太歳神に攻められ破られることがほとんどであり、凶神とされる。歳破神の在位する方位に向けて、動土、建築、移転、婚姻、旅行は「凶」とされ、これを犯すと災いを受けるとされる。またペットや家畜を求めることも「凶」である。仏教における本地仏は河伯大水神。
【歳殺神:さいせつしん(火曜星・侍神相天王)】

 歳殺神は殺気をつかさどり、万物を滅するとされる。歳殺神の在位する方位に向けて、移転、旅行、結婚、訴訟などは「凶」とされ、武器や刃物を得るのは「吉」である。仏教における本地仏は大威徳明王。
【黄幡神:おうはんじん(羅光星・宅神相天王)】

 現在は道祖神の様に村の守り神として信仰されているが、元々はインド神話に登場するラーフと呼ばれる蛇神であり災害をもたらす神として恐れられた。日本に伝来してからは、日食を引き起こした神である素盞嗚尊と習合した。黄幡神の在位する方位に向けて、土を動かすのは「凶」だが、武芸に関することは「吉」となる。仏教における本地仏は摩利支天王。
【豹尾神:ひょうびしん(計斗星・蛇毒気神天王)】

 気性が激しく、天宮神という女神を伴う。豹尾神の在位する方位に向けて、家畜などを求めるのは「凶」とされる。不浄なものを嫌い、在位する方位に向けて大小便をしてはいけないとされる。豹尾神は受け入れを嫌い、天宮神は出すことを嫌うことから、豹尾神の在位する方位への嫁(婿)入りや、天宮神の在位する方位からの嫁(婿)取りは凶とされる。また、豹尾神・天宮神の在位する方位を犯すと、家族だけでなく家畜にも災いが及ぶという。仏教における本地仏は三宝荒神。

【正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命:マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト】

 正勝吾勝(まさかつあかつ)は「正しく勝った、私が勝った」の意味で、勝速日(かちはやひ)は「勝つこと日の昇るが如く速い」もしくは「素早い勝利の神霊」の意味で、誓約の勝ち名乗りと考えられている。忍穂耳(おしほみみ)は、威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意味である。
 葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった。
【天之菩卑能命:アメノホヒノミコト】

 葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。
【天津日子根命:アマツヒコネノミコト】

 アマテラスとその弟のスサノオが誓約を行なった際に、アマテラスの玉から生まれた神々の一柱で三番目に挙げられる。アマツヒコネ自体はその後の神話には登場しない。
【活津日子根命:イクツヒコネノミコト】

 アマテラスが左手に巻いていた玉から生まれたとされる。 この神の後裔氏族は見当たらない。
【熊野久須毘命:クマヌクスビノミコト】

 アマテラスの持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱で、天照大神の物実から生まれたので天照大神の子であると宣言された。
【多紀理毘売命:タギリヒメノミコト】

 多紀理(たぎり)は「滾り(水が激しく流れる)」の意味で、天の安河の早瀬のこととも解釈される。単独で祀られる神社は少ない。
【市寸島比売命:イチキシマヒメノミコト】

 誓約の際にアマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き出した霧から生まれた三女神の2番目に生まれた女神で、この剣(十挙剣)からは五男三女神が生まれており、三女神を特に宗像三女神という。
【多岐都比売命:タギツヒメノミコト】

 化生した順番や、どの宮に祀られるかは、『記紀』で異同がある。『古事記』では3番目である。単独で祀られる神社は少ない。

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<旧記から見た有間野神社>

八王子御略歴

 神社総代を務めてきた森本家には『八王子御略歴』と『八王子産子金蘭巻』のコピーが残されている。拝見させていただくと、『八王子御略歴』には天照大神と須佐之男命から五男三女の神様が生まれたことと、牛頭天王と蘇民将来について長々と書かれており、次に鉄中城落城の際に社殿も旧記も焼失したこと、その後、享保十一年に社殿を造営したが、神鏡が盗難にあい、長井與八郎氏より神鏡の寄付がなされたと記録されている。
 そして最後に極楽寺を開基した長井氏について付け足し文が追記されている。天正元年に浅井祐政・長政父子が信長に討たれ、長井成良は官仕を辞め北近江に蟄居し仏門に帰依する。子の成孝は天正年間に近江から有間野村に移り住み、鉄中城合戦に参戦するも落城し、八王子社も罹災して時の様子は判然としない。その後、社殿再建・神鏡盗難、長井氏寄付と綴られている。付け足し文は享保十三年、源守雄(花押)。
 本文も付け足し文も含めて大正2年の調査でこれを八王子社の縁起とすると社掌・岡田儀三郎の名が記されている。
 また『八王子産子金蘭巻』には興味深い事柄が書かれていた。日清・日露での戦いの勝機は、何ら欧米諸国に勝るものは何もなく実に不可思議だが、これはひとえに神のご加護にあるといえる。
 万世一系の天皇を奉戴する君臣の関係は世界に比類なきもので、イギリスのように力で君臨したり、フランスのような共和制とは異なり、極めて親密で濃密な関係にある。またいかに文明が進歩発達しても、国民の気風や学問を身につけ、機械を製造することが肝要である。そのためにも敬神尊祖という考えを忘れてはならない。バルチック艦隊を全滅できたのも、無形の戦闘力、いわゆる日本國體の精華にして万国に比類なき所以である。

 ここにおいて、政府はますますの國體の精華を発揚し、国光を維持し、国民の道義忠君愛国の念慮を深善させ民風作興の基礎をなすために種々研究した結果、合祀合社の訓令を発布するに至った。一村一社に合祀するにあたり相当の経費が必要とされるが、産子にとっては当然の義務である。しかるに、我が県民は敬神の念慮が薄く、一時の経費の支出に顧慮して尊祖の大義を忘れている。まことに凡夫の浅ましい次第である。
 併せて学制制度の変更として、従来4年制だった尋常小学校を6年制へと切り替えることで、児童が増加し手狭となった校舎を新築する必要が発生した。
 すなわち、神社は合祀、学校は6学年制に切り替えよとのお上の通達に対して、校舎新築や教育費に多額の負担がのしかかって大変である、と素直に応じない状況のようである。
 粥見村十一社のうち十社が合祀に応じる中、有間野だけが合祀に反対するのは神の意見であるとのことで、時の風潮としては村治の円満を欠き人心反抗の原因となっている。このため有間野村での6学年制問題は喫緊の課題となり、神社の合祀に応じれば6学年制の設備設置に同意すると言い表しても、有間野側は断固として6学年制に反対だという。(このあたりの細かいニュアンスが文面を読んでもよく判らない)
 6学年の設置を行わないとは将来の我が子らの教育をどう考えているのだ、さらにこの要求のために神社を捨て、祖先の遺業を忘れるとは、祖先の霊に対して申し訳が立たない。神社に対して軽挙に出るとは残念至極で、事態は難境を呈している。この時、前郡長であった甘粕春吉が有間野へ来訪し、猛烈に叱り飛ばし一日も早く合社せよと命じている。
 この命に従えば、基本金を提供して祭神の設備を整えると伝えるも、産子はこの問題に対して思い詰めるままであった。しかし6学年制問題については2名の委員が相当額の資金提供があってすんなりと解決し、校舎新築が実現した。
 ことの推移を見るに、このような難問も人事を尽くして天命を待つと言われるように、この結果はまさしく産土神の御威徳に他ならない。したがって産土神はこの土地に祀るべきである。
 というような内容が、難しいかな遣いで書かれている。やはり大正2年に作成され、有間野神社社掌の岡田儀三郎をはじめ、村会議員の野呂勘祐、神社総代の森本市良衛門以下78名の産子たちの名前が列記されている。

<有間野の神社合祀>

 長々と牛頭天王と八王子について書き連ねてきたが、最後に神社合祀について考えたい。有間野の長老たちからは、口々に血を流すほどの激しい衝突があったと聞かされたという。
 神社合祀により一村一社制度が布かれたにもかかわらず、有間野の氏子は2つに分かれた。現在の有間野は有間野(有上、有中、有下)、神原、栃川と大きくは3地区から構成されているが、明治4年の合併までは、それぞれ有間野村、神原村、下栃川村と独立していた。合併後の有間野村は、明治22年の町村制施行により隣接する粥見村と向粥見村の3地域が合わさり飯高郡粥見村が発足した。
 明治29年の郡制施行により飯高郡と飯野郡の区域を持って飯南郡が発足し、所属郡が飯高郡から飯南郡に変更となった。昭和8年に粥見村が町制施行して粥見町となり、昭和31年には柿野町と合併して飯南町が発足した。これに伴い粥見町は廃止となる。長らく飯南郡飯南町として存続したが、平成17年に松阪市、嬉野町、三雲町、飯高町と合併して飯南郡が廃止となり、現在の三重県松阪市飯南町となった。
 さて、有間野が一村一社の原則に則っていないというのは、神社合祀が施行された明治43年当時は飯高郡粥見村大字有間野であり、原則に則れば粥見村に属した神社は粥見神社に合祀されるはずであったであろう。にもかかわらず粥見村には粥見神社と有間野神社の2社が並存したということである。
 結論から言ってしまえば有間野村民が合祀に反対したわけであるが、ではなぜ合祀に反対したのか興味をそそる視点であると思う。駒澤大学院生であった柳光里香氏が修士論文で有間野の神社合祀をとりあげ、その後、小田匡保氏と共同でまとめ上げた論文を基に考えてみたい。

 明治末期の神社合祀により、飯南町では49社あった神社が3社になり、飯高町では54社から6社へと減少した。村別に見ると、柿野村(1社)、粥見村(2社)、宮前村(2社)、川俣村(2社)、森村(1社)、波瀬村(1社)となる。2社残った宮前村と川俣村はそれぞれ大字の範囲で区分され理解しやすいが、粥見村は大字を分断し氏子圏で編成されている。
 神社合祀当時の粥見村の戸数をみると、粥見454戸、向粥見194戸、有間野170戸であった。神社合祀の前段としての神饌幣帛料供進社の指定にあたっては、神社の施設や氏子・信徒数、由緒が考慮され、大字粥見の村社八雲八柱神社はこれらの条件を満たしていた。また地理的にも大字粥見の規模は突出しており、神社が存続するのは自然であった。
 これに対して有間野の村社八王子社は、享保年間に和歌山藩主より神祭料の寄付を受けていたといえども、氏子数は68戸しかなく八雲八柱神社の162戸よりもはるかに少ない。飯南町史には「先祖以来氏子の強い信仰により合祀しなかった」と記されているが、柳光・小田は距離的要因も考えられると指摘している。
 近世の紀州藩松坂領の時代には、粥見は櫛田川下流の下出江組に含まれていたが、有間野は櫛田川上流の滝野組に入っていた。そのため粥見と有間野の間には大きな境界があったのではないかと分析しているが、大字有間野の中の神原と栃川が粥見神社への合祀に応じていることに対しては、合併するまでは独立した別の村であったことを根拠にまとまりが希薄であったのではないかと結んでいる。
 しかし「
Ⅳ 現在の有間野と有間野神社 -(3) 栃川組・神原組と有間野神社・粥見神社」の項で、有間野神社へ八雲神社(栃川)と神原神社を合祀しようという話は何度も出たというが、有間野神社の財産問題から合祀に至らず。と報告している。
 問題の本質はここにあったのではなかろうか。すなわち、粥見神社への合祀を前提として、神原と栃川は合祀に応じたのに、どうして有間野は応じなかったのかと問題を提起していたが、そうではなくて、なぜ有間野神社と神原、栃川の合祀が成立しなかったのか、という視点である。
 先にあげた『八王子産子金蘭巻』の中に合祀に応じない経緯が記録されていたが、「有間野神社」が「粥見神社」への合祀に応じないという内容のように受け取られた。有間野の神社合祀の奇異な点は、旧有間野村を構成していた神原と栃川が有間野神社への合祀ではなく隣接する粥見神社へ合祀され、有間野の住民の中で氏子が2社に別れてしまったことにある。
 有中の長老が幼少期に聞いた話では、神原神社が粥見神社へ合祀される当日は、まるで祭礼かと思われるほど賑々しく遷宮し、これ見よがしに有間野の中心部を移動していったという。
 校舎の建設費は解決していたので、財産問題とは有間野神社についてのことだと推察するものの、具体的なことはよく判らない。しかし、財産問題の件で合意することができず、やむなく粥見神社への合祀に応じたというのが、おぼろげながらに浮かび上がってくると感じた。
 信仰心に関わる問題のため、安易に詮索を深めてしまうと、思いもよらないところで心的衝突が発生しそうで気を使う。小さな集落であるからこそ、3地区の住民は公言しないことで関係を維持してきたのかもしれない。

<参考>

『飯南町史』
『飯南郡史』

『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』学研

『牛頭天王と蘇民将来伝説』川村湊

『八王子略歴』(写し)

『八王子産子金蘭巻』(写し)

「神社合祀と地域社会−三重県松阪市飯南・飯高地区を事例に−」柳光里香・小田匡保
(『駒澤大学大学院地理学研究 第43号』)
京都大学附属図書館創立百周年記念公開展示会図録(22)祇園牛頭天王御縁起

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/html/c22.html
京都大学付属図書館蔵『祇園牛頭天王御縁起』より

http://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/bcec8c2a67b19fbe94ac06cbdff681c7

牛頭天王之祭文 
http://museum.umic.jp/somin/category_top/g_index.html

神仏分離令 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

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