大河内城の戦いと城跡

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2017年〜2019年

<大河内城合戦直前>(『勢州軍記』『信長公記』より)

 永禄十二年(1569年)正月、織田信長がいよいよ伊勢国南部(南勢)へ侵攻するという気運が高まり、細首城主の日置大膳亮[01]は信長の伊勢侵攻に備えて自ら城に火をかけて大河内城(おかわちじょう:松阪市大河内町)へと馳せ参じた。これを機に南勢諸家はそれぞれの諸城に立て籠もり、北畠勢は臨戦体制を整えた。
 第一線の陣営として、今徳山城(津市安濃町今徳)に奥山常陸守[02]、小森上野城(津市城山町)に藤方御所[03]、木造城(津市木造町)に木造御所[04]、八田城(松阪市嬉野八田町)に大多和兵部少輔[05]、阿坂城(松阪市大阿坂町)に大宮入道[06]、船江城(松阪市船江町)に本田右衛門尉[07]、曽原城(松阪市曽原町)に天花寺小次郎[08]、岩内城(ようちじょう:松阪市岩内町)に岩内御所[09]という面々である。
 そして大河内城内には北畠一族をはじめ、南勢五郡、伊賀南部、大和国宇陀、志摩、紀州、熊野を併せ万全の態勢をとっていた。
 ところが信長は、三好三人衆
[10]、斎藤龍興[11]、長井道利[12]らが、南方浪人たちを従えて、将軍足利義昭[13]の御所を攻め込んだと聞き及び、将軍救援のために急ぎ京へと上っていき、伊勢へ攻め寄せてくる様子はなかった。その後、将軍御所の改築や内裏の修理を施すなどしばらく京にとどまり、五月十一日に帰城している。
 前年に神戸、関、長野を調略しすでに北勢は信長配下となっていたため、南勢へ攻め込むのは時間の問題と思われていた。信長はいつ頃攻め込んでくるのだろうか?北畠勢にとって見えない敵を待つ日々は緊張の連続で気持ちの休まる日もなかったことであろう。そんな中、五月に入って北畠氏の庶家である木造氏が調略に応じて信長方へと寝返った。

 木造家は初代伊勢国司北畠顕能[14]の二男の顕俊[15]を家祖とする北畠一族の筆頭であったが、この時期には北畠宗家との関係が悪化し軋轢が生じていた。北畠一族とはいえ、都住まいの上に足利将軍直参の扱いを受け、「油小路殿」と呼ばれ一門の中でも別格の名家であった。
 ここに至るには少し複雑な事情があったように思われる。前年の多気祭にて木造具政[04]は、兄・具教[16]に命ぜられ田丸[17]、大河内[18]、坂内[19]の三御所に次いで馬を並べることとなった。面目を失った具政は兄を深く恨んだといわれている。
 具政の不満は次第に膨れ上がり、ついに宗家を裏切ることとなる。ある夜、木造城の館にて具政を囲んで、長男・左衛門佐長政[20]、次男・右京亮長雄[21]、腹違いの弟・源浄院[22]の他、家臣の水谷俊之[23]、柘植三郎左衛門尉[24]らと、近頃の世の動きについて評定を行っていた。
 信長の話題になったところで、源浄院が信長への帰属をもって一門の安堵を提言した。城代家老の水谷俊之は激しく切り返し大論争になったものの、具政は木造家を軽んずる北畠宗家ではなく、新鋭の織田信長に参向することを決断したという。
 木造氏内応の報せを受けた具教は憤り、柘植三郎左衛門尉の娘・奈津を母子ともども捕らえ、木造城に向けて磔にした。そして澤・秋山らの北畠勢と木造勢との合戦が数度に及んだが、具政が居す戸木御所
[25]も木造城も屈強の城郭にて、北畠勢も容易に攻め落とすことができなかった。

 『信長公記』によれば、八月二十日に(岐阜城を)出馬しその日のうちに桑名まで進軍した。翌日は鷹狩りをして駐留し、二十二日に白子観音寺に陣を取り、二十三日に小作(木造城)に着陣した。雨のため駐留し、二十六日に阿坂城を落とし、周辺の小城へは兵を派遣することなく大河内城へ進撃したという。
 『勢州軍記』にはこの間をもう少し詳しく記述されている。二十三日に滝川一益
[26]と関の兵で小森上野城を攻め抑え、前年に北畠勢の抑えとして安濃津城入りをした織田掃部介[27]と工藤[28]の兵で今徳山城を攻め抑えて、信長が木造城入りをしている。
 二十六日に木造城を発ち、源浄院と柘植三郎左衛門尉の先導で山沿いの道を進んで民家をことごとく放火していく。八田城を取り囲もうとするが、朝霧がかかって晴れないため、無理に攻め寄せることを避けた。
 翌二十七日には、木下藤吉郎[
29]率いる先陣が阿坂城を攻め落とし、信長本隊と合流して大河内城を取り囲むべく進軍するのである。

(人物紹介)/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

[01] 日置大膳亮(ひおきだいぜんのすけ:生没年不詳)多気御所の侍大将で寺社奉行を務める。松ヶ島の細首(細汲)城主。兄の高松左兵衛督は大河内城の旗頭。弓の名手で大河内城の戦いでは信長軍の夜襲を撃退し奮戦した。大河内城合戦和議の後、なぜか織田方に仕え北畠氏滅亡に加担する。そのためか何も記録が残されておらず、実名すら不明で官途の大膳亮で表記されている。
[02] 奥山常陸守=奥山知忠(おくやまともただ:?-1576)。多気御所の侍大将で政所を務める。今徳山城の城主。長野工藤家との最前線に位置する。織田勢に敗れ信長に降る。後に三瀬の変の刺客に選ばれるが、旧主は切れないと信長からの朱印状を焼き出家する。その忠義に感動した信雄が報償を取らせるが、これも固辞する。
[03] 
藤方御所=藤方朝成(ふじかたともなり:1530-1597)藤方慶由の子で通称は刑部少輔。北畠氏の庶流であったが、永禄十二年の信長侵攻の際に寝返り、後に三瀬の変に関わる。「北畠家臣帳」では父の慶由が御所とされている。
[04] 
木造御所=木造具政(こつくりともまさ:1530-?)木造家最後の当主で官途は兵庫頭。七代北畠晴具の三男として生まれるが、父の命で木造具康の養子となり家督を継ぐ。天文二十二年(1553年)に従四位下左近衛中将に叙され、翌年に戸木城を築城する。永禄十二年の信長侵攻の際に寝返り、信雄の家老となる。
[05] 
大多和兵部少輔(おおたわひょうぶのしょうゆう:生没年不詳)その人と成りについては不明。
[06] 
大宮入道(おおみやにゅうどう:?-1569)多気御所の重臣で政所家老を務める。剃髪号は含仁斎。阿坂城で徹底抗戦するが、内応者の続出で陥落し、木下藤吉郎に謀殺された。
[07] 本田右衛門尉=本田親秀(ほんだちかひで:生没年不詳)。本田美作守の叔父。『勢州軍記』では右衛門尉が城主のように書かれているが、他書では美作守(左京佐)と表記されており、右衛門尉は間違いであると思われる。美作守(左京佐)は多気御所の重臣で政所家老を務める。

[08] 天花寺小次郎(てんげじこじろう:?-1569)多気御所の侍大将で官途は越中守。織田勢の攻撃をよく防戦し撃退したが、討ち死にした。
[09] 岩内御所=岩内光安(ようちみつやす:?-1576)官途は主膳正。国茂の子・具俊という説もあるが確証は得られず。天正四年(1576年)の三瀬の変の時に信雄に田丸城へ呼び出され、北畠一族もろとも謀殺された。
[10] 三好三人衆 三好長逸(みよしながゆき:生没年不詳、日向守)三好政康(みよしまさやす:生没年不詳、下野守、釣竿斎宗渭、一般には「政康」とされるが、史料で確認できるのは「政勝」「政生」である。)、石成友通(いわなりともみち:?-1573、主税助)の三人をさし、いずれも三好長慶(みよしながよし:1522-1564)を支えた一族と重臣。長慶の跡を継いだ甥の義継(よしつぐ:?-1573)が若年だったことから、後見役として三好家中の実権を握っていった。同時代史料の『言継卿記』や『多聞院日記』には「三人衆」と表記されている。
[11] 斎藤龍興(さいとうたつおき:1548-73)斎藤義龍(さいとうよしたつ:1527-61)の庶子と伝わり、斎藤道三(さいとうどうさん:1494-1556)の孫にあたる。父・義龍の死により14歳で家督を継ぐ。祖父や父と比べると凡庸で、評判の悪い家臣を重用するなど、家臣の信望を得ることができなかった。信長の稲葉山城侵攻には、家臣の安藤守就らに内応され城を追われ長島へ亡命する。以後再び大名として返り咲くことはなかった。
[12] 長井道利(ながいとしみち:?-1571)道三の子とも弟とも伝わり、長井利隆の孫、長井長弘の子という説もある。初めは道三に仕えたが、道三と義龍がが不仲になると義龍につき道三を討つ。
[13] 足利義昭(あしかがよしあき:1537-1597)室町幕府第十五代将軍。将軍家の家督相続以外の子として、慣例により仏門に入る。兄の第十三代将軍義輝が三好三人衆に暗殺されると、還俗して義秋と名乗る。信長に擁されて第十五代将軍に就任。やがて信長と対立し都から追われ、備後国に下向する。一般的にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
[14] 北畠顕能(きたばたけあきよし:1326-1383)北畠親房の三男で建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り国司に任じられた。権大納言准后。伊勢北畠氏の祖。はじめ玉丸城を築いたが、伊勢国守護の高師秋に敗れ多気に拠点を移し南朝の支柱として武家方に対抗した。
[15] 北畠顕俊(きたばたけあきとし:?-1402)顕能の次男。木造家の始祖。子の俊
通とともに一志郡木造庄に居住したのを起源とするが、その生い立ちについては不明。
[16] 北畠具教(きたばたけとものり:1528-1576)七代晴具の長男。剃髪号不智。九歳で従五位下侍従に叙任され、天文二十二年(1553年)に晴具の隠居により家督を相続。翌年には従三位権中納言に叙任される。北伊勢の勢力拡大に尽力し北畠家の最盛期を築き上げた。永禄六年(1563年)父・晴具の死を機に官職を辞して嫡男・具房に家督を譲り隠居する。

[17] 田丸御所=田丸具直(たまるともなお:?-1609)具忠の男。別名直昌、忠昌、具忠、具安などいろいろ名乗りを変えているため、その足跡をたどることを難しくしている。官途は従五位下中務大輔。父・具忠の隠居により家督を相続。北畠氏滅亡後は織田家臣となり、信雄の命により北畠家枝連衆を謀殺した。

[18] 大河内御所=大河内具良(おかわちともよし:?-1576)官途は従五位下左中将、相模守。頼房の次男で別名を教通。永禄十二年(1569年)より大淀城主となるが、なお大河内御所と呼ばれる。剣の達人であったが、三瀬の変で謀殺される。

[19] 坂内御所=坂内具房(さかないともふさ:生没年不詳)官途は右近将監。「北畠家臣帳」にも「北畠御所討死法名」にも右近将監具房とあるが、「具房」は「具祐」の別称であり、間違いであると斎藤拙堂は指摘している。よってこの時代の御所は「具信」と考えられる

[20] 木造左衛門佐長政(こつくりながまさ:?-1604)官途は左衛門佐もしくは左衛門尉、通称は大膳。天正二年(1574年)には信雄の侍大将として水軍を率いて伊勢長島城攻めに参陣する。
[21] 木造右京亮長雄(こつくりながかつ:生没年不詳)その人と成りについては不明。
[22] 源浄院=滝川雄利(たきがわかつとし:1543-1610)木造家出身とされるが諸説あって一致しない。若くして出家し源浄院主玄と名乗った。木造具政調略の際、滝川一益にその才能を見出され、自身の甥として信長に仕えさせた。はじめ通称は兵部少輔、諱は友足、別名として伝わる一盛、雅利に改めたと思われる。天正十年(1582年)主君の信意が「信勝」に改名したのに伴い勝雅、さらに「信雄」に改名したのに伴い雄利に改名した。
[23] 水谷俊之(みずたにとしゆき:生没年不詳)多気御所の重臣、北畠家四管領の執権で立野城主。官途は刑部少輔。信長次男の茶筅丸を養子に迎え入れる和議条件に反対する北畠親成らの抗議を退けて、国司父子へ和議同意を説得した。
[24] 柘植三郎左衛門尉=柘植保重(つげやすしげ:?-1579)柘植氏の出身で伊賀国の土豪・福地宗隆の子で滝川雄利の姉の夫、もしくは実父という説があるが確証は無い。和睦後は信雄の家老となり、三瀬の変で北畠具教を謀殺する。

[25]
戸木御所 天文二十三年(1554年)木造具政が家督を長男の長政に譲り隠居所として築いたのが始まり。天正十二年(1584年)長政が増強・修復して完成した。
[26] 滝川一益(たきがわかずます:1525-1586)久助、左近尉、左近将監、伊予守。剃髪号入庵。近江甲賀郡の出身といわれ、天文年間(1532-1555)には信長に仕えたと思われる。信長家臣としての出世は早く、柴田勝家や佐久間信盛らと並んで、永禄年間(1558-1570)には一軍の将となっている。官名については文書の署名、宛名、『信長公記』にもすべて「左近(尉、将監)」と書かれているが、『勢州四家記』『三河物語』『木造記』など後世の書物には「伊予守」と書かれている。
[27] 織田掃部介(おだかもんのすけ)=津田一安(つだかずやす:?-1576)出自は不明だが、『織田系図』には筑後守寛貞の子・掃部助忠寛(ただとお)という記載があり、本人との判断はできずも、この程度の遠縁であろうと考えられている。

[28]
工藤=長野工藤氏。藤原南家の流れをくむ氏族のひとつで、工藤祐経(曽我兄弟に討たれる)の三男・祐長が伊勢平氏残党討伐のため、伊勢国長野の地頭職となり、その子・祐政が長野氏を名乗ったのが起源。鎌倉時代から伊勢国の有力国人として君臨したが、北畠氏の台頭により伊勢国の覇権を争った。以来、永禄元年(1558年)北畠氏の攻勢に屈するまで抗争は続いていた。
[29] 木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:1537-1598)羽柴藤吉郎、羽柴秀吉、羽柴筑前守。尾張国愛知郡中村の出身。何時どのような経緯で信長に仕えるようになったのかは確かな文献がないが、『太閤素性記』によれば、放浪の末、故郷に戻り、知人で信長の小人頭をしていた一若という者の紹介で、信長の草履取りに雇われたという。

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<大河内城合戦>(『勢州軍記』『信長公記』より)

 永禄十二年(1569年)八月二十八日、信長[01]は五万とも七万ともいわれる大軍を率いて、北畠氏との総力戦を前に桂瀬山へ陣を布き、城下の町を破壊して焼き払った。次いで自ら周囲を駆け回って地勢を調べて、大河内城を四方から取り囲むよう入念に攻め手の配置を指示した。
 
南の山には舎弟の織田上総介信包[02]、滝川一益[03]、織田掃部介[04]、池田恒興[05]、丹羽長秀[06]ら16名の武将、西には木下藤吉郎[07]、氏家卜全[08]、安藤守就[09]、佐久間信盛[10]ら7名の武将、北には斎藤利治[11]、磯野員昌[12]ら7名の武将、東には柴田勝家[13]、森可成[14]、佐々成政[15]ら12名の武将が配置された。
 さらに城の周囲には鹿垣(獅子垣)を二重三重に巡らせ、諸方からの通行を遮断した。柵内の巡回警備には菅谷長頼
[16]、塙直政[17]、前田利家[18]ら24名の武将を配置した。信長の本陣の警護は、御馬廻衆、御小姓衆や弓や鉄砲の部隊が配置された。

 迎え撃つ北畠勢は、前年暮れに信長との決戦もやむなしと判断して、居城を多気(たげ:津市美杉町)の霧山城(きりやまじょう:津市美杉町)から大河内城へと移し、籠城戦をも想定して万全の態勢を整えていた。八代具教[19]はすでに隠居の身で、不智と号していたが、家督を子息の具房[20]に譲り、父子ともども入城した。そのため大河内城主の大河内具良[21]は大淀城(おおよどじょう:多気郡明和町大淀)へ移っていた。
 明けた正月九日には、細頸城(ほそくびじょう:松阪市松ヶ島町)を守っていた日置大膳亮[22]は、他所(長島や北勢のことか?)が焼き打ちされてきたのを知るに、砦一切を焼き払いいち早く大河内城へ馳せ参じていた。北畠勢随一の大勇士と評判の高い日置大膳亮の入城を聞き、南勢の小名、大名も続々と大河内城に集結したという。
 長野御所
[23]、田丸御所[24]、大河内御所[25]、坂内御所[26]などの一族をはじめ、森本飛騨守[27]・彦十郎父子[28]、方穂民部少輔[29]、林備後守[30]・新氶父子[31]、侍大将として鳥屋尾石見守[32]・与左衛門尉[33]父子、水谷刑部少輔[34]・藤次郎[35]父子、安保若狭守[36]・大蔵少輔[37]父子などなど。その他にも六呂木、五箇、滝野、閼伽桶、波多瀬、峯、栗谷など南勢各地から集まっていた。城の外構には柵を二重に設置し、兵糧も蓄えて籠城戦に備えた。この時に参戦した北畠勢はおよそ一万程度であっただろうと大西源一は記している。
 『勢州軍記』によれば、大河内城を包囲した八月二十八日の夜になると、池田勝三郎信輝[38]は大手筋に当たる広坂口の市場宿を打ち破った。日置大膳亮は諸侍と共に防戦するが、池田勢の先陣である土蔵四郎兵衛尉[39]と八木篠右衛門尉[40]が鬨の声を上げながら攻め寄せてきた。家木主水佑[41]は飛び抜けた働きで、槍を合わせて手柄を重ねるが、多勢に無勢、数時間の激闘の末、城中に引き退いていった。
 翌日の明け方から、織田勢が四方から攻撃を加え、敵味方から弓鉄砲疾風雷雨のごとく激しい攻防戦が繰り返され、数日間続くも一向に落城する様子はなかった。この時に、織田方の浅井備前守[42]の家臣である蒲生氏郷[43]が初陣を無事に果たした反面、藤堂源七郎[44]、多賀新七郎[45]らが討ち死にしたという。そのため信長は廻番を大河内城包囲の柵際に配置させ、北畠勢からの不意打ちに用心し無意味な攻撃をやめさせた。
 具教は予てから遠方に籠城する兵に対し、信長勢の陣所を夜討ちせよと下命していたが、大軍を目の前に誰もが尻込みして撃つ者はいなかった。そのような状況の中、船江の者[46]だけが九月に入って、丹生寺[47]へ夜討ちをかけた。ここは寺井村[48]の北にあたる市場と呼ばれる場所で、大柿城主の氏家常陸入道卜全[08]の陣所になる。夜更けになって不意打ちをかけ、火を放ち鬨の声を上げて攻め立てていった。大柿勢の蜂屋般若助[49]らが応戦したが、高嶋椋右衛門[50]に討ち取られ、36人が討ち死にした。船江勢は各々首を取り勝鬨をあげて引き返していったという。また『大淀記』によれば、信長は九鬼嘉隆[51]に兵船をもって大淀に上陸を命じたが、鈴木貞経[52]、安西昌綱[53]らがこれを討ち退けたという。

 九月下旬[54]、信長は戦術を変えて南側からの攻めを担当する寄衆に奇襲を下命した。池田勝三郎信輝、丹羽五郎左衛門尉長秀、稲葉伊豫入道一徹[55]らは三隊に分かれて搦手から夜討ちをかけた。この時、雨が降り出して鉄砲は役に立たなかったという。三大将配下の諸侍たちは暗闇に紛れて、密かに龍蔵庵口[56]から侵入し鬨の声をあげたのだが、本丸だと思って突入した場所は二ノ丸だった。
 声を聞いた北畠勢は本丸から松明を持って照らし出し、弓鉄砲で狙い撃ちにした。池田隊らは散々に討ち倒され多くの死者を出した。次いで、日置大膳亮、安保大蔵少輔、家木主水佑、長野左京亮
[57]以下諸侍たち[58]が、槍や刀で討ち出て合戦に臨み、敵味方入り乱れた戦いは数時間に及んだ。松明程度では十分な明るさも取れず、合言葉などを使って戦ったのであろうか?
 織田勢はお馬廻りの朝日孫八郎
[59]、をはじめ十三名の侍大将[60]、その他にも多くの屈強な侍たちが討ち死にしたという。北畠勢では城将空円入道[61]の指揮が的確で、戦さの駆け引きには立勝(たてすぐり)居勝(いすぐり)[62]をもって槍を入れさせ、織田勢を追い立てたことで国司具教に賞された。また、朝日孫八郎を討ち取った蔵田喜右衛門[63]は感状に添えて来国光の刀を与えられたという。(『北畠物語』)
 『信長公記』によれば、翌九日には滝川一益に命じて多芸の国司館をはじめ周辺をことごとく焼き払い、稲作を薙ぎ払って捨てさせたという。しかしこの話は『勢州軍記』には出てこない。逆に魔虫谷攻防戦について、『信長公記』には書かれていないが、『勢州軍記』には詳しく書かれている。
 十月上旬、滝川一益は信長の本陣に参上し、大河内城攻めに思いのほか時間がかかっていることを無念に思い、自らが一戦し決着をつけると進言した。『総見記』にも「城中ノ上下男女等此口ヲ破ラレテハ其マゝ落城疑ナシトテ」と書かれているように、北畠勢にとっても城の運命をかけての大決戦である。一益は伊勢衆を引き連れて西方の魔虫谷から攻め入ったが、城中からは弓鉄砲を打ち出され、滝川勢はことごとく打ちのめされ、谷は人馬の屍で埋まったという。
 しかし一益はこれにひるむことなく攻め上り、塀を乗り越えようとしたところ、城内からは予てから準備していた竹槍に火を灯し、代わる代わる突き捨てた。さらに情勢を見極めた北畠勢は門を開いて切って出る。勇猛果敢に敵中に突進し、縦横無尽に暴れまわる荒武者ども
[64]が滝川勢を撫で斬りにしていく。これには一益もたまらず兵を引き揚げたという。

 どこから攻めても突破口を見出せず、負け戦さが続くばかりで、ことこの度の合戦に限っては総てが目算外れであった。大河内城を包囲してからすでにひと月も経過していた。そんなある日、信長の本陣で一人の兵が松の木に寄り添い、大河内城に向かって「大腹御所の餅食い!」と野次り飛ばした。「大腹御所」とは、九代具房のことで、大きな腹をして無能の大食漢だったことを揶揄している。
 城中では腹に据えかね、腕の立つ兵に射殺させるべく、和州秋山家の弓の名手3人が候補に上がった。そして諸木野弥三郎
[65]、秋山萬助[66]、秋山志摩介[67]の中から諸木野に白羽の矢が立った。弥三郎はかしこまって立ち向かい、大弓に大箭をつがえ、見事に四、五町あまり先の松と敵兵を射抜いた。
 信長はこれに感心し、その矢を抜いて大河内城中へ送った。敵味方ともにたいそう感悦したという。まるでその場で見ていたような記述内容だが、『勢州軍記』はしょせん後世に記された「軍記物語」という認識をされており、どうしても公家日記などの信頼のおける同時代史料とはみなされていない。
 『信長公記』が信長一代記でありながら史料として高い信頼をおかれているのは、著者の太田牛一
[68]が信長に近侍する官僚として仕えていたことが重要視されている。
 それでも『勢州軍記』の著者の神戸良政
[69]は、蒲生氏郷の家臣であった父・神戸政房[70]の記録を元に、松坂へ戻ってから地元の人々に聞き取りを行ってまとめ、寛永十五年(1638年)に徳川頼宣[71]に献上している。
 合戦から半世紀以上経過しているとはいえ、当時の様子を鮮明に覚えている者も多くいたことだろう。『信長公記』同様に『勢州軍記』の史料としての信頼性の高さを再認識したい。

両軍将兵一覧:()内は永禄十二年(1569年)当時の年齢)///////////////////////////////////////////////////////

<織田勢>

[01] 織田信長     1534-1582(35歳)

[02] 織田上総介信包  1543-1614(26歳)後に長野工藤家17代当主となる
[03] 滝川一益     1525-1586(44歳)織田四天王のひとり

[04] 織田掃部介     ? -1576(不明)人物紹介 [27]参照
[05] 池田恒興     1536-1584(33歳)輝政の父

[06] 丹羽長秀     1535-1585(34歳)織田四天王のひとり
[07] 木下藤吉郎    1536-1598(33歳)後の羽柴秀吉
[08] 氏家卜全      ? -1571(不明)美濃三人衆のひとり
[09] 安藤守就      ? -1582(不明)美濃三人衆のひとり
[10] 佐久間信盛    1528-1581(41歳)信長の重臣

[11] 斎藤利治      ? -1582(不明)道三の末子で新五は通称
[12] 磯野員昌     1523-1590(46歳)浅井長政の重臣

[13] 柴田勝家     1522-1583(47歳)織田四天王のひとり
[14] 森可成      1523-1570(46歳)槍の名手、宇佐山城の戦いで討死
[15] 佐々成政     1536-1588(33歳)府中三人衆のひとり
[16] 菅谷長頼      ? -1582(不明)織田信房の子、織田姓だが一族ではない
[17] 塙直政       ? -1576(不明)鉄炮奉行
[18] 前田利家     1539-1599(30歳)槍の又左の異名
[38] 池田勝三郎信輝  1536-1584(33歳)池田恒興。俗称として「信輝」と伝わるが、署名されたものはなく、死去前月に出された禁制にも「恒興」と署名している。

[39] 土蔵四郎兵衛尉  生没年不詳(不明)初め信清に仕え、後に恒興の家臣となる

[40] 八木篠右衛門尉  生没年不詳(不明)詳細不明

[42] 浅井備前守    1545-1573(24歳)浅井長政。信長の義弟

[43] 蒲生氏郷     1556-1595(13歳)六角氏滅亡の際、人質として信長に臣従
[44] 藤堂源七郎     ? -1569(不明)藤堂高則。高虎の兄

[45] 多賀新七郎     ? -1569(不明)詳細不明

[49] 蜂屋般若助     ? -1569(不明)信長の初期の頃の家臣

[51] 九鬼嘉隆     1542-1600(27歳)志摩七人衆のひとり

[55] 稲葉伊豫入道一徹 1516-1589(53歳)稲葉良通。美濃三人衆のひとり、一鉄は号

[59] 朝日孫八郎     ? -1569(不明)信長の馬廻。「此者死去ノ後、信長馬廻ノ武士、勇功ノカセキ軽クナレルトイハレタルホトノ勇士也」(『武家事紀』)

<北畠勢>

[19] 北畠具教     1516-1589(53歳)八代伊勢国司

[20] 北畠具房     1516-1589(53歳)具教の子息、九代伊勢国司

[21] 大河内具良     ? -1576(不明)大河内御所

[22] 日置大膳亮    生没年不詳(不明)寺社奉行

[23] 長野御所     1552-1576(17歳)長野具藤

[24] 田丸御所      ? -1609(不明)田丸具直

[25] 大河内御所=大河内具良

[26] 坂内御所     生没年不詳(不明)坂内具房
[27] 森本飛騨守    1521--1569(48歳)森本具俊。『南勢雑記』系図より

[28] 森本彦十郎     ? -1630(不明)森本俊貞。『南勢雑記』では彦市郎

[29] 方穂民部少輔   生没年不詳(不明)多気館主、枝連衆につき御所を称せず

[30] 林備後守     生没年不詳(不明)宇陀郡日牧住人

[31] 林新氶      生没年不詳(不明)詳細不明

[32] 鳥屋尾石見守   1508-1577(61歳)四家老のひとりで筆頭家老

[33] 鳥屋尾与左衛門尉 生没年不詳(不明)詳細不明

[34] 水谷刑部少輔   生没年不詳(不明)水谷俊之。四家老のひとり

[35] 水谷藤次郎    生没年不詳(不明)詳細不明

[36] 安保若狭守    生没年不詳(不明)安保城主

[37] 安保大蔵少輔   生没年不詳(不明)多芸武者屋敷、安保住人

[41] 家木主水佑    生没年不詳(不明)従騎大将、家城城主

[50] 高嶋椋右衛門   生没年不詳(不明)名賀郡青山町伊勢地

[52] 鈴木貞経     生没年不詳(不明)詳細不明

[53] 安西昌綱     生没年不詳(不明)詳細不明

[57] 長野左京亮    生没年不詳(不明)三瀬砦守将

[61] 空円入道     生没年不詳(不明)詳細不明

[63] 蔵田喜右衛門   生没年不詳(不明)詳細不明

[65] 諸木野弥三郎   生没年不詳(不明)詳細不明

[66] 秋山萬助     生没年不詳(不明)右近将監、四家老のひとり、大和三大将

[67] 秋山志摩介    生没年不詳(不明)詳細不明

(注釈)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

[46] 船江城 松阪市船江町。城跡には浄泉寺が建っている。舟江(『松ヶ嶋軍記』)、府内(『松坂権輿雑集』)とも書き、「ふない」ともいう。地名の由来は本田美作守の城下府内が転訛ともいう(『飯南郡史』)。遺構は何も残っていないが、百々川(どどがわ)が浄泉寺に突き当たって流れを鉤形に北に変え、また南には幅4mの地割り状の用水が流れて、城郭の姿がしのばれる(『松阪市史』)。

[47] 丹生寺 松阪市丹生寺町。氏家卜全の陣所跡は不明。地名は白鳳期創建と伝わる南都六宗の丹生寺に由来する(『松阪の町の歴史』)。同寺は北畠氏の菩提寺で、永禄年中に兵火によって焼失したという(『飯南郡史』)。

[48] 寺井村 松阪市笹川町。江戸期〜明治9年までの村名で、紀州街道の一里塚と茶店があった。また、木綿は中世の市の遺跡といわれる字市場の市場晒(宝暦咄し)がある。明治9年に山村と合併し笹川村と改称する。明治22年に大河内村の大字となり、昭和42年から現在の笹川町となる。
[54] 九月下旬 『信長公記』には九月八日、『勢州兵乱記』『北畠物語』『勢州四家記』には九月下旬、『御所記』には二十八日、『多芸録』には二十九日と記されている。
[56] 龍蔵庵口 大河内城の搦手(城の裏門)。
[58] 諸侍たち 日置大膳亮、安保大蔵少輔、家木主水佑、長野左京亮、二階堂弾正兵衛尉、蔵田喜右衛門尉、稲生勘解由左衛門尉、同与四郎、石橋治部大輔、榊原彌四郎、眞柄宮内丞、同修理進、久保三河守等:『御所記』
[60] 十三名の侍大将 池田恒興の攻め口:朝日孫八郎、波多野彌蔵    丹羽長秀の攻め口:近松豊前、神戸伯耆、神戸市介、山田大兵衛、寺沢彌九郎、溝口富介、斎藤五八、古川久介、河野三吉、金松久左衛門、鈴村主馬(『信長公記』)
[62] 立勝(たてすぐり)居勝(いすぐり) 合言葉によって同じ行動をすることで、紛れ込んだ敵を見つけ出す方法。立勝は手を叩き、居勝は居すわる。
[64] 荒武者ども 山崎大炊介、阿曽弾正忠、三瀬蔵人、服部孫三郎、潮田長助、岸江又三郎(『御所記』)
[68] 太田牛一(おおたぎゅういち/うしかず:1527-1613)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、官僚。尾張国の土豪の家に生まれると伝わる。初め僧侶であったが、還俗し斯波義統の家臣となる。天正二十三年の義統暗殺後に遺児の義銀について織田家に行ったと考えられている。柴田勝家の足軽衆として仕え、弓の腕を認められ信長の直臣となる。永禄七年の堂洞城攻略の活躍で知行を増やされ、後に近習の書記となる。安土城下では屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、また丹羽長秀の与力として、行政を担当する。信長没後は秀吉、秀頼に仕える。慶長十五年には池田輝政に自著『信長記』を書写して進呈する。「牛一」は「ぎゅういち」と読むのが通例とされているが、子孫が「牛」を通字としていることから「うしかず」と訓む方が適切といわれる。

[69] 神戸良政(かんべよしまさ:1609?-?)蒲生家断絶後、浪人となり父・政房の故郷である伊勢に移り住み、『勢州軍記』『勢州兵乱記』を著す。

[70] 神戸政房(かんべまさふさ:生没年不詳)慶長五年、神戸具盛(織田信孝の養父)の客死で神戸家は絶家となるが、蒲生氏に仕え高島性を名乗っていた政房が神戸性を継いで神戸家を復興させた。

[71] 徳川頼宣(とくがわよりのぶ:1602-1671)家康の十男で紀州徳川の祖。水戸藩、駿府藩を経て和歌山藩の藩主となる。八代将軍吉宗の祖父にあたる。


(北畠勢の兵力)///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 『勢州兵乱記』によると、国司直轄の兵一万、一族諸家の分割に属するもの五千とあるが、仮に参戦したのを南伊勢五郡、伊賀南半国、大和宇陀郡とみて、天正十二年の浅野・前田の出兵兵賦の率から試算すると、北畠氏治下の石高三十一万六千百三十六石の兵賦はおよそ一万二千六百余人から一万四千八百余人となる。
 また『日本戦史』によると、禄一万石につき元和元年の大坂役には二百人、慶長五年の会津役には三百人の兵を出しており、最少額を採用すると六千三百余人となる。大西源一はちょうどこの中間をとって北畠勢を約一万と推定している。さらにここから大河内城以外の諸城に配置した数を控除すると、実際に籠城したのは七千から八千ほどではなかったかと推測している。
 また山田勘蔵は『勢州兵乱記』も『多芸録』も一万五千とするも過大であり、領域石高から推定するとおよそ一万人、その内二、三千人が諸所に配置されたとして籠城した兵数は約七、八千人が妥当と記している。城内には焼き討ちから逃れた農民たちが多数いたと思われるため、かなり窮屈な状態であったと想像できる。

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<合戦の決着>(『勢州軍記』『信長公記』より)

 攻めても攻めても敗走を重ねる信長は、城中で謀反を起こそうと調略を仕掛けたが、心変わりをする者はいなかった。ただ一人、野呂左近将監[01]が逆心を抱いたが、すぐに発覚し場内で殺された。
 なればと信長は兵糧を断つべく五十日[02]に渡って包囲し続けた。ところが北畠の家老・鳥屋尾石見守は予てからこのような事態を察していたため、十分な備蓄を備えたうえで、籠城早々から軍勢には粗食を強いて、国司父子も兵と同じものを食べた。そのため兵糧が尽きることはなく、降伏する心配もなかった。石見守は文武両道のうえ知略に富み、私心を捨てて人を立てる優れた家老であった。
 信長はこの様子を聞き知ると、和睦して終結すべく織田掃部助を使者として遣わせ、「信長の子息を具房の養子とするので、陣を引くように。」と告げた。国司側ではすぐに評定を開いたところ、「これは人質を取ることになる。」と同心し、朴木隼人正
[03]を使者として、ついに十月下旬に和睦することとなった。
 しかし『信長公記』には、全く異なる内容が記されている。兵糧攻めにあった北畠勢では、籠城の準備もないまま駆け込んだ者もおり、すでに餓死者が出始めるに及んでいた。そこで国司父子は詫び言を申し入れ、信長の次男・茶筅丸に家督を譲るという条件を受託することで和睦に至ったという。
 北畠側、織田側、双方に都合の良い内容で記録されているが、この戦いを客観的に観ていた京の記録ではさらに異なる様子が知れる。
 『細川両家記』にによれば、「同八月末つ方信長東國勢催。其勢拾万餘騎と伝。伊勢國へ被入合戦度々雖有之。神軍候が國司方勝利を得て暖(あつかい)に成。同十月十二日信長は開陣の由申候。人數過分死由候なり。」と、北畠勢勝利と記録されている。
 また『義秋公方記』には、「同八月ノ末ヨリ十月マテ日々ノ合戦ニ、國司方ニモ朴木刑部ヲ初數百人打死シテ、長籠城ニタスケノ兵モナク、退屈シテ見エシカハ、此有様ヲ聞テ柘植三郎左衛門尉木造城エ和談アリタキ由ノ矢文ヲ射ル。」と書かれているように、木造氏を通じて織田側から和議がもたらされたことが知れる。
 和議となり、受け取りに出向いてきた滝川一益と津田一安に城を明け渡した国司父子はそれぞれ笠木
[04]と坂内[05]へ退去したと『信長公記』には書かれているが、『勢州軍記』には触れられていない。
 北畠具房の養子となるべく茶筅丸は、南方奉行を命ぜられた織田掃部助をはじめ諸侍を従えて船江の薬師寺に居住し、その後船江城にて国司父子と対面を果たしている。茶筅丸はこの時十二歳であったので、すでに立派ないでたちであったことだろう。
 元亀二年(1571年)、具教は六女を具房の養女とし、茶筅丸の内室にしている。余談だが、城を明け渡した翌年、信長に反旗を翻した潮田長助
[06]は「宵の森」に砦を築いた。しかし周囲からは物笑いになった程度で、大した抵抗もできずに終わっている。「宵の森」は後に「四五百森(よいほのもり)」と呼ばれるようになり、蒲生氏郷が天正十六年(1588年)に松坂城を築くことになる。

(注釈)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

[01] 野呂左近将監(のろさこんしょうげん::?-1569)官職名から想像するに、秋山右近将監と並んで北畠家老と思われるが、逆心による誅殺のためか、詳細については不明である。

[02] 五十日 一般的に北畠方の記録では五十日間の籠城が定説となっており、『勢州兵乱記』『北畠物語』では十月下旬と記されている、ところが『信長公記』では十月四日に城の明け渡しが行われたと書かれている。また『多聞院日記』には「去三日ニ勢州国司ノ城落了之由」と十月三日と書かれている山田勘蔵は定説に従って十月下旬が正しいと判断しているが、大西源一は『信長公記』に従って三十七日間の籠城と判断している。
「其の日は『寛永系図』によると、十月二十七日、『北畠物語』には十月下旬となってゐるが、最も正確なる史料『信長公記』には十月四日と記されてゐるから、それに従うことが正しいと思うのである。元来『北畠物語』とか『勢州兵乱記』とか『勢州軍記』とか云う類の北畠側の史料は、兎角北畠氏のことを、大きく書きたがる傾きがあって、時には誇張の筆を弄してゐる。どうもさう云う物は、史料として充分の信用が置けない。」
[03] 朴木隼人正(ほうきはやとのかみ:生没年不詳)大和国松山城主、軍奉行。

[04] 笠木 笠城御所のこと。多気郡多気町笠木。小林秀(県史編さんグループ)は「笠木」「坂内」を列挙ではなく、「笠木の坂内」という解釈を提言している。しかし北畠側の資料ならばともかく、織田側の資料で北畠一族の実態を承知しているとは考え難く、「笠木の坂内」解釈は少々苦しいのではないか。
[05] 坂内 坂内御所のこと。

[06] 潮田長助(あさだながすけ:生没年不詳)四五百森城主。「物語云元亀元年伊勢両家諸士付城ヲコシラヘ責山ゴカズ此サワギニヨツテ諸城ヤブルコトアタハズカヘツテ潮田長助等新城ヲ四五ノ森ニ築クサテ此山ハ名所也、伊勢の国よいいの森の時鳥見楽捨たる去来の古聞此長物ヲ父スグレタル大刀にて天下にカクレナキモノナリ肥牛の四足ヲ持サシアケ道ヲヨケユキ或ハ大木ヲ曲ケ腰ヲカケ大竹ヲツカミヒシテコトトシ大門ノ扉ヲハスシ流水ヲ防キ凢人シワザニ非スト」(『伊勢国司とその時代』)

(大河内城と大河内家)////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 大河内城築城時期についての確かな資料はなく、『南方紀伝』に「満雅挙兵の応永廿二年には顕雅大河内城を守る」とあり、北畠家三代満雅が国司となった応永十年から廿二年までの間に築城されたものと考えられる。築城理由はいろいろあるだろうが、国司北畠家の守りの城であり、南朝勢力を支える必要から築かれたと思われる。さらに地形上、要害上、戦略上の点から優位適切の地として現在の場所に築かれた。
 大河内家は大河内城とともに栄えた。初代の顕雅は伊勢国司二代北畠顕泰の三男で兄の満雅をよく支えた。顕雅を大河内城の初代城主としたのも満雅であった。築城当時の大河内家は南朝に貢献し、木造家を抑えることが大切な存在意味であった。室町時代末期には大河内、木造、田丸、星合、岩内(ようち)、藤方、波瀬の諸氏が分派し、それぞれ御所と称した。木造御所は早くから宗家と対立しており、田丸御所(田丸城)、坂内御所(坂内城)、大河内御所(大河内城)の三家が北畠三御所となり、大河内御所が代々筆頭を務め、宗家が絶えた時はこれを継ぐ立場であった。
 初代:顕雅、二代:親郷、三代:親忠、四代親泰、五代具良、六代教通

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大河内城周辺現在図-2

<大河内城跡

 阪内川、矢津川と伊勢自動車道に囲まれた杜が城跡である。大河内城は標高20メートルほどの丘陵地の突端部に築造されており、東に阪内川、北に矢津川、西と南には深い谷があり、自然の要害となっている。「七尾八谷あり」と云われ地形が複雑に入り組んでいる。阪内川は昔は「大川」と呼ばれており、「大川の内側」に開けた土地から「大河内」という地名がついたのであろうか。
 現地では「大河内」は「おかわち」と発し、「おおかわち」でも「おおこううち」でもない。また「大」という文字は「お」と発し、「おお」ではない。「大石」は「おいし」、「大淀」は「おいづ」と発する。『多聞院日記』には「ヲカツツチ城」と表記されており都では「おかっち」と呼んでいたのかもしれない。
 応永二十二年(1415年)、伊勢国司三代北畠満雅が両統迭立を履行しない室町幕府に対する挙兵の際に、備えとして築城され、弟の顕雅(大河内家始祖)を城主にすえた。以後は顕雅の子孫が居城し大河内御所と称された。
 現地に行ってわかるのは、大手口ではなく搦手口からの方が入りやすい。近年、大手道が整備されたとはいえ、住宅に挟まれた狭い通路の奥には鬱蒼とした木々が密集して、早朝の清々しい時間帯以外では歩くのを躊躇しそうな雰囲気である。
 コンクリート舗装された搦手口の龍蔵庵坂を上がっていくと、搦手門跡の石柱が立っている。その奥には龍蔵庵子安地蔵の石碑が見える。この辺りに庵が建っていたようだが、その場所は不明である。搦手門跡から坂を見下ろすと大河内の集落が見渡せる。眼下の民家が建ち並ぶ場所は、当時蔵屋敷があった場所である。川と城とに挟まれたわずかな敷地に何軒かの屋敷があったのだろうか。

大河内城跡累地図-2

 郷土史家の山田勘蔵が作成した大河内城趾畧地圖(大河内城跡略地図)によると、搦手門手前には出丸が記されている。確かに頭の上には出丸跡らしき丘があり、池田勢がここから侵入したのかと周りの状況を眺めていたら、いくつかの疑問が湧いてきた。固く閉ざされた門の手前に出丸が設けられているのに、この出丸についての動きが記録されていない。さらに池田勢はどうやってこの門をやり越して城内に入ることができたのか。
 大河内の市民センターでいただいた地形図を見ると、搦手門周辺の法面はかなり急勾配であることがわかる。門を破らず場内へ侵入するには急勾配の斜面を登るしかないであろう。もしそうであるならば、はたして音を立てずに斜面を乗り越えることが可能であったのだろうか。もしくは本当に出丸があったのか根拠を知りたいところである。
 
搦手門跡を越えると左手に崎谷へと続く道が延びている。ちょうど崎谷の中を歩くことができるわけだ。北隣りの敷地は二ノ丸跡で、表忠碑が建ち、その奥には北城稲荷神社祀られている。その傍らには北城稲荷神社堀田家鎮守と刻まれた石柱が立つ。
 池田勢はこの場所で鬨の声をあげたという。その声を聞いた北畠勢は本丸から投げ松明を持ち出し、弓鉄砲で次々に応戦したというが、二ノ丸にも何らかの建屋があり、番兵もいたのではなかろうか。
 仮にうまく松明を投げつけたとしても、闇夜で松明程度の明かりの中、池田勢の動きを遠目に確認することは困難だったのではなかろうか。その後、日置大膳亮らが門を開いて討ち入ってきたと『勢州軍記』は記すが、一体どこの門であろうか。この辺りで門といえば「搦手門」しかないが、二ノ丸内に小さな門があったのかもしれない。また、池田勢三大将以下諸侍の人数を50人ほどと仮定すると、双方合わせて100人以上の兵が狭い二ノ丸で斬り合うことになるが、松明程度の明かりの中で同士討ちなどの間違いは起きなかったのだろうか。
 『北畠物語』や『御所記』には、「闇夜とて色目も分らず、合言葉によってもみ合い戦う」と書かれていることを『南勢大河内城史』で紹介している。この場所でいろいろ頭の中で想像しながら検証してみるが、一向に現実的な様子を思い浮かべることができない。

標柱-s

 二ノ丸の北側には馬場が広がる。現在は杉林になってしまい見通しがきかないが、城内でもっとも広い面積になる。大手道から上がってきてもこの馬場は高台にあるため、登りきらないと広がりの様子を見ることはできない。大手道は深く入り込んだ谷に作られているため、現在の道幅は当時のままと思われる。大手道を挟むように東西の高台先端に櫓跡がある。やはり笹や木が生い茂り往時の様子を知ることはできない。
 二ノ丸跡の北西には
御納戸跡の石柱が立つ。市民センターでいただいた大河内城址図を見ると、馬場から西ノ丸にかけてはほぼなだらかで、略地図に描かれたような二ノ丸と御納戸が分離するような作りではなく、一つの大きな敷地の北西隅に納戸が建ち並んでいたようにも考えられる。その中に兵糧米が貯蔵されていたのだろう。
 御納戸跡を越えていくと
本丸跡に着く。そこには八幡神社が祀られている。城跡は「城山」と呼ばれていることから、城山八満神社とも北畠八幡神社とも呼ばれている。創祀は不明だが、多気の北畠神社が寛永二十年(1643年)に祀られていることから、同時代頃であろうとみられている。その隣には大きな大河内合戦四百年記念碑が建てられている。
 『勢陽五鈴遺響』には「山嶺ニ八幡祠ヲ祀リテ其地ヲ遺失センコトヲ恐テ村民ノ耕地ヲ除ケリ毎歳八月十五日祭祀ス境内雑草ヲ生セス常ニ栖掃スルカ如シ奇異トス」と書かれており、現在でも
草が生えないと言われている。本丸の西側に西ノ丸があり、こちらにも御楯神社が祀られている。本丸よりは狭いものの、大人数が籠城するには十分な広さといえる。信長勢に焼き出された農民たちはこの場所に避難していたのだろうか。
 この西ノ丸と本丸に挟まれた深い谷が「
まむし谷」である。小さな橋が架けられており、そこから谷底を見下ろすも、樹木が生い茂り見通しが効かないが、それほど深くは感じない。大河内城址図の等高線を確認してみると、それなりに勾配はきつそうでもある。谷の西側に沿って西ノ丸北東部へと歩いてみるが、やはり谷の様子を眺めることは難しい。後日、北西に位置する「まむし谷」の入り口から分け入ってみると、徐々に谷が狭くなり、斜面が立ちはだかってくる様子が目の前に広がってくる。率直な感じとしては、この崖を登って攻め込もうという気持ちが萎えてしまいそうな景観である。
 さらに奥へと進んでいくと、徐々に登りとなり、本丸、西ノ丸との距離が縮まってくるが、深奥まで入り込まないととても柵に手が届くことはできそうにない。しかしここまでたどり着くうちにほとんどの兵は狙い撃ちにされて倒れてしまうだろう。一益はそれにも怯まず斜面を駆け上るが、北畠勢からは槍の雨で突かれ谷底へ転落したという。元飯南町学芸統括監のW氏からは、籠城した農民たちは槍などの武器を使うのではなく、石を投げて撃退したと考えられることを教えていただいた。
 谷底では弓で狙い撃ちにされ、かいくぐって崖を登ってきても石を投げつけられ、それでも登りきり柵に手をかけたところで、槍に突かれて転落する。どう考えても無謀としか思えず、一益の心境を理解することができず、率直な疑問を大河内地区市民センター長(青木氏)にぶつけてみた。
 織田勢は大河内城を包囲し、何度も攻め入るも一向に落ちる気配がない。長逗留になり信長の苛立ちも相当な状態に達していたと思われる。この年、すでに壮年となっていた一益には信長の胸の内は手に取るようにわかっていたのだろう、死を覚悟して局面打開のために、あえて「まむし谷」からの奇襲を申し出たのではないかと話された。「まむし谷」は人馬で埋まったと『勢州軍記』は記す。攻めるも守るも恐ろしく悍ましい光景が展開されたと思うとゾッとする。
 大河内地区まちづくり協議会の尽力で少しづつ整備されて入るものの、鬱蒼と生い茂る木々を取り払うまでには覚束ない状況のようである。史跡整備とはお金と人手がかかることで、小さな地区では大きな障壁となっている。当時のまむし谷を復元できることが成し得たら、おそらく凄惨な戦いをより現実的に感じることができるのだろう。


大河内城跡周辺と信長包囲陣考察>

◆ 諸木野伝説と東面包囲陣

 北畠家臣である弓の名手の伝説が『勢州軍記』に記載されている。ある時、兵を呼び寄せ信長の本陣である桂瀬山の松の大木から、大河内城に向けて大声で叫ばせた。「大腹御所の餅喰らい〜!」と散々の悪口をたたいた。伊勢国司九代の具房はよく肥えて、腹も出ていたので「大腹御所」と呼ばれていた。
 大河内城の兵たちは大いに怒り、あの男を射殺せと、弓の名手を選んだ。宇陀の秋山家の侍の中には腕の立つ者が幾人もそろっており、その中から諸木野弥三郎が選ばれた。弥三郎は大弓に大矢をつがえて射放ったところ、四〜五町(1町≒109m)ほどの距離を真っ直ぐ飛んで行き、松の木とともに男に命中した。これを見た信長は感心し、その矢を抜き褒美を添えて大河内城へ送ったという。
 この伝承にはいくつかの疑問があると山田勘蔵は述べている。大河内城と桂瀬山では2kmほども離れており、声も弓も到底届かない。『伊勢国司記略』には桂瀬の山ではなく近くの山であろうと記されている。そこで現地をよく調べてみると、確かにその通りだと確認している。また、軍記物によっては、「桂瀬山」を一名「只恋山」(『勢州軍記』)とか「恋の山」(『勢陽五鈴遺響』)と書かれているが、このような山は無く、正しくは「只越山」である、とも記している。『大河内村史蹟名勝誌』にはこの点について詳しく記載されている。

諸書に「桂瀬山を一名戀の山といふ」とあるのに大河内御所兵亂記には「信長ハ東ニ當テ桂瀬山ヲ本陣ト定ム、此ノ山ハ唯戀山トモ申ケル」と明記してある。即ち宮城山の麓の支邑は只越といふ。由つて此所を當時は唯戀(只越)山と稱したと考へられる。それを諸書には桂瀬山と混同し且つ、只の字を逸して戀ノ山と記したものと見られる。此の事は大河内戦史上の新發見である。(『大河内村史蹟名勝誌』)

 只越山の頂上には「旗かけ松」と呼ばれた大木があったが、明治22〜23年頃に自然枯死により伐られて現在は存在しない。松の名前の由来は不明だが、この松を傷つけると血が出るといわれ誰も触らなかったという。山田は諸木野伝説の松は只越山の旗かけ松であろうと力説している。
 只越山は大河内城から東方四〜五町ほどの距離で、弓の名手であれば狙いを定めて射抜くことも可能な距離である。現在、只越山の一部は採石場となっているが、山頂は残っているようだ。しかし道らしいものは確認できないので、山頂まで登るにはかなりの困難が伴う。

諸木野伝説

 大河内幼稚園の駐車場から南側を望むと、大河内城と只越山とを見渡すことができる。本当にこの距離で射抜くことができるのかと懸念されるが、和弓においては四町という距離で稽古していた記録があるという。
 日々鍛錬に余念のなかった当時で、さらに大弓を扱う名手であったとすればありえない話ではないようだ。北畠家臣帳には諸木野弥三郎という名を見つけることはできなかったが、諸木野八衛門と諸木野伝助の名はある。特に八衛門は多気に侍屋敷を構えていることから、同じ宇陀出身の沢氏同様に諸木野氏が北畠家臣の中でも重用されていたことが想像できる。

弥三郎墓-2

 宇陀市榛原地諸木野には弥三郎をはじめ一族の墓がある。航空写真で確認すると、深い山の中にポッカリと小さな集落が集まっていることがわかる。現在は田圃の奥に1本ポツンと立つ桜の木が名所となっており、春には早朝から多くの人がカメラを手に訪れる。小さな丘陵地を上ったところに共同墓地があり、その一角に弥三郎と諸木野一族の墓石が祀られている。
 山田勘蔵は只越山の麓に柴田勝家をはじめとした東面将兵たちの陣があったと推論している。只越山の頂からは大河内城内の様子が手に取るように分かったであろうことから、十分にあり得ると思われる。
 逆に城側からも只越山麓に陣取った様子がよく見えたであろうから、双方ともに緊張感のある日々が続いたことだろうと想像できる。籠城戦とはずいぶん神経をすり減らした戦いだったのだろう。


(東面包囲陣、諸木野伝説)///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

●『信長公記』
  柴田修理、森三左衛門、山田三左衛門、長谷川與次、佐々内蔵助、佐々隼人、梶原平次郎、不破河内、
  丸毛兵庫頭、丹羽源六、不破彦三、丸毛三郎兵衛
●『現代語訳 信長公記』
  柴田勝家、森可成、山田勝盛、長谷川与次、佐々成政、佐々隼人、梶原景久、不破光治、丸毛長照、
  丹羽氏勝、不破直光、丸毛兼利
●『信長記』
  柴田修理亮、森三左衛門尉、山田三左衛門、長谷川與次郎、佐々内蔵助、梶原平次郎、不破河内守、
  子息彦三、丸毛兵庫守、子息三郎兵衛、丹羽源六
●『織田軍記』
  柴田修理進勝家、森三左衛門尉可成、佐々内蔵助成政、不破河内守、同彦三、山田三左衛門、
  長谷川與次郎、梶原平次郎、丸毛兵庫頭、同三郎兵衛、佐藤六左衛門、丹羽勘助、同源六
●『南勢大河内城史』
  柴田修理亮、森三左衛門尉、山田三左衛門尉、長谷川与次郎、佐々内蔵助、梶原平次郎、不破河内守、
  同子息彦三、丸毛兵庫守、子息三郎兵衛、丹羽源六、佐々隼人、丹羽勘助、佐藤六左衛門
●『三重・国盗り物語』
  柴田勝家、森三左衛門、山田三左衛門、長谷川与次、佐々内蔵助、佐々隼人、梶原平次郎、不破河内、
  丸毛兵庫、丹羽源六、不破彦三、丸毛三郎兵衛

諸木野伝説『伊勢国司記略』
 按ずるに、北畠物語には、信長公の本陣桂瀬山にて、一人の大兵松の大木に寄掛り、城中に向ひ云々とあり。余大河内に行きて見るに桂瀬山と相距ること十町内外と覺ゆ。城山より是を望むに、はるかに雲烟の内にかすめり。いかなる大男にても見えざるべく、いかなる大音にても聞ゆべき様なし。是によって物語の妄なるを知れり。よって勢陽雑記のしるす所を見るに、桂瀬山の者一人を呼びて大木にのぼせ云々とあれば、桂瀬ならで近邉の山にて惡口せしなり。是細事といへども地理に關ることなれば辨じおけり。

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◆ 西蓮寺と南面包囲陣

 城跡の南側には西蓮寺が建つ。法然上人の開宗と伝わるも開山・開基についての詳細は不明である。伝承によれば、真弓寺、薬師寺、吉祥寺の三ヶ寺を有していた。もとは阪内川右岸の市民センターあたりに建っていたそうで北畠氏の一族も居住していたようだが、永禄十一年の信長の焼き討ち(西蓮寺縁由のまま)で焼失し、薬師寺のみ残ったという。
 その後再建されたのであろうか、元禄二年(1689年)八月の洪水で寺地を流され、翌年に現在の地に再建された。白猪山を源流とする阪内川は、当時は暴れ川として何度も氾濫を起こしていたようである。真弓寺は明治維新時に廃寺となり、薬師寺は西蓮寺に合寺、吉祥寺は樹敬寺(松阪市新町)の末寺となっている。
 境内にはその時に流された墓石を、取り出して祀られたと思われる黒ずんだ墓石がいくつもある。中でもひときわ大きな供養碑が建っている。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた横には「為北畠大納言菩提」の文字が見える。八代具教の官職は「中納言」なのだが、想いが強すぎたのか「中」が「大」になってしまったようだ。山田勘蔵は織田勢の南方陣を「二ノ丸に接近した南方丘陵地帯で、今秋葉祠のある方面」と少し曖昧な表現をしている。
 西蓮寺前の道沿いに進んでいくと伊勢自動車道が通っており、本来の丘の形状を見ることが難しくなる。伊勢自動車道開通前の測量図の等高線をトレースして観察すると、出丸跡から自動車道あたりまで大小の頂を要した複雑な起伏が尾根続きあったことが分かる。自動車道の南側には小さな丘があり、谷間を挟んで脇谷城跡がある山へと続く。自動車道辺りの布陣では尾根伝いの出丸に近すぎて奇襲攻撃を受けかねず現実的とは思えない。やはり大広の集落へと通じる道周辺の谷まで引いていたのではなかろうか。
 一見すると標高130mの目の前の丘が邪魔で場内の様子が分からないとも思われるが、標高150mを超える脇谷城から見渡せば、丘越しに場内の様子はよく分かることであろう。脇谷城については詳細が不明だが、地形や状況から考察すると、大河内城の出城的存在だったのではないかと考えられている。したがって織田勢がここを占拠して城内を偵察していた可能性は十分にあり得る。
 現地を歩いてみると、南方の陣取りとしては脇谷城の麓から阪内川に向けて布陣していたのではないかと強く感じた。現在薬師堂が建つ辺りは開けた丘陵地で大人数が押し寄せても十分対応できる地形である。仮に東面包囲陣と連絡を交わす場合も阪内川沿いを疾走することで比較的容易に行うことができる。

(南面包囲陣)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

●『信長公記』
  織田上総守、瀧川左近、津田掃部、稲葉伊豫、池田勝三郎、和田新介、中島豊後、進藤山城、後藤喜三郎、
  蒲生右兵衛太輔、永原筑前、永田刑部少輔、青地駿河、山岡美作、山岡玉林、丹羽五郎左衛門
●『現代語訳 信長公記』
  織田信包、滝川一益、津田一安、稲葉一鉄、池田恒興、和田定利、中島豊後守、進藤賢盛、後藤高治、
  蒲生賢秀、永原重廉、永田正貞、青地茂綱、山岡景猶、丹羽長秀
●『信長記』
  舎弟織田上野介、津田掃部助、稲葉伊豫守、池田勝三郎、和田新助、中嶋豊後守、丹羽五郎左衛門尉、
  蒲生右兵衛太輔、進藤山城守、後藤喜三郎、山𦊆美作守、同玉林斎
●『織田軍記』
  長野上野介殿信包、織田掃部助、稲葉伊豫守、池田勝三郎、丹羽五郎左衛門、和田新助、中島豊後守、
  同勝太郎、蒲生右兵衛大夫、同忠三郎、進藤山城守、後藤喜三郎、山岡美作守、同玉琳齋、同孫太郎、
  永原筑前守、永田刑部丞、青地駿河守
●『南勢大河内城史』
  織田上野介、津田掃部助、稲葉伊予守、池田勝三郎、和田新助、中島豊後守、丹羽五郎左衛門尉、
  蒲生右兵衛大夫、近藤山城守、後藤喜三郎、山岡美作守、同王林斎、滝川左近、永原筑前、永田刑部少輔、
  青地駿河守、中島勝太郎、蒲生忠三郎、山岡孫太郎
●『三重・国盗り物語』
  長野上野介、津田掃部、稲葉一鉄、池田信輝、和田新介、中島豊後、進藤山城、後藤喜三郎、
  蒲生右兵衛大輔、永原筑前、永田刑部少輔、青山駿河、山岡美作、山岡玉林、丹羽長秀

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◆ 養徳寺と西面包囲陣

 城跡の西側、崎谷を挟んだ丘陵地には養徳寺というお寺が建っていた。応永十年(1403年)、三代満雅の時代に大空玄虎和尚によって開かれたが、織田勢が大河内城を包囲した永禄十二年(1569年)八月二十八日に、北畠勢の手によって焼失された。『大河内御所兵乱記』には「城中ヨリ放火箭自焼シタリ」と書かれている。北畠氏の菩提寺でありながら織田勢の拠点とされることを嫌って自焼したという。さらに北畠家臣の富田俊房(宗春?)という人物が、火中から本尊と脇仏を拾い上げ、戦の後に上出に祀ったという伝承が残っている。「上出」の現在地を特定することは難しいが、小片野町に「上出」と呼ばれる集落がある。大河内からは峠二つの距離にあるため、織田勢の手から逃れてここへ移された可能性も考えたいが、当地にはそのような伝承は残されていない。
 近畿自動車道伊勢線(伊勢自動車道)の建設に伴う発掘調査時に建物跡が確認され、小さな住居の柱穴や排水溝、井戸、池、火葬場のような跡が発見された。出土物の「養」と朱書きされた天目茶碗や、永禄七年(1564年)の銘がある五輪塔の一部などから養徳寺の遺構と推定された。
 後日、この時の発掘調査を担当された西村さんに当時の様子を聞くことができた。調査範囲は高速道路が開通される範囲にとどまり、そこからは明確に寺院があった証拠は発見できていないとのこと。また焼土の痕跡もなく、もし本当に養徳寺が建っていたとするならば、高速道路の西側で果樹園が広がる場所ではなかろうかと話された。現在、養徳寺は中矢津地区に建っているが、焼失後いつ頃の再建なのかは判然としない。

西面包囲陣

 養徳寺が拠点となれば、目と鼻の先の西ノ丸の様子が手に取るようにわかるので、北畠勢が自焼したという伝承もありえない話ではなさそうだ。しかし仮に足がかりにしたとしても西ノ丸とは直線距離にして200mも離れていない。諸木野伝説ならずとも弓の狙い撃ちを避けて昼間の移動はできず、足がかりが足止めになりかねないのではなかろうか。
 やはり山田勘蔵が記すように、崎谷を隔て養徳寺跡の丘、中矢津の東方から「まむし谷」口一帯という見立てが現実的に思える。現在の地図で示せば、養徳寺から八雲八柱神社にかけての範囲に陣取っていたのではなかろうか。神社辺りからは「まむし谷」の様子がよく見えたはずである。現在のような植生は伐られており、ずっと見通しが良かったはずである。滝川隊は養徳寺跡の丘陵地を回り込んで「まむし谷」に突入したと思われるが、「まむし谷」入口の頂には当然ながら見張りがいたと思われるので、両岸から狙い撃ちにされるのを覚悟して強行したのであろう。

(西面包囲陣)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

●『信長公記』
  木下藤吉郎、氏家卜全、伊賀伊賀守、飯沼勘平、佐久間右衛門、市橋九郎右衛門、塚本小大膳
●『現代語訳 信長公記』
  木下藤吉郎、氏家卜全、安藤守就、飯沼長継、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳
●『信長記』
  佐久間右衛門尉、木下藤吉郎秀吉、氏家左京助、同與力、飯沼勘平、市橋九郎左衛門尉、塚本小大膳、
  伊賀伊賀守
●『織田軍記』
  佐久間右衛門尉信盛、同左京亮、竝に與力、飯沼勘平、市橋九郎右衛門、塚原小大膳、安藤伊賀守、
  三橋傳左衛門、堀、樋口、阿閉淡路守、同萬五郎
●『南勢大河内城史』
  佐久間右衛門尉、同左京亮並奨力、木下藤吉郎、飯沼勘平、市橋九郎左衛門尉、塚本小大膳、伊賀伊賀守、
  三橋伝左衛門、阿閉淡路守、同万五郎、堀 某、樋口 某
●『三重・国盗り物語』
  木下藤吉郎、氏家卜全、伊賀伊賀守、飯沼勘平、佐久間右衛門、市橋九郎右衛門、塚本小大膳

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◆ 大手口と北面包囲陣

 北面の陣取りについては、「下矢津民家から城の大手に至る地帯」と山田勘蔵は記す。この指摘にもあえて疑問を呈したい。まずは北面周辺の現況を確認していく。
 大河内城跡略地図によれば、当時の阪内川は現在の国道166号線に沿って流れていたらしい。旧阪内川と矢津川に挟まれた市場の宿が、現在の九蓮寺が建つ辺りである。信長が大河内城を取り囲んで城下の町を焼き払った場所がここではないかと思われる。九蓮寺もその時に焼失したが、現在の場所とは異なっていた。
 九蓮寺のご住職に話を聞くと、奈良時代、行基が地方巡教の際、寺を建立したのが九蓮寺の始まりだといい、その場所は只越地区の寺井公会所裏の茶畑あたりという。応永二年(1395年)、伊勢国司三代満雅の時代、寺谷に土地を拝領し寺を再興した。境内は一町歩あまりあり、七堂伽藍のたいそう大きな伽藍であったという。ところが応永二十年に失火が原因か焼失してしまった。その地は焼野と呼ばれ、現在でも年配の方々は口にするそうだ。十年後にすぐ近くの坂東の地に再建し長らく繁栄したが、信長の焼き討ちで焼失した。その場所は「坂東池」と呼ばれる溜池の辺りだったらしい。その後、慶長十三年(1608年)になって真田に再建したが、老朽化に伴い堂棟が大破したため現在の浦屋敷に移築し今日に至っている。
 現在でも年配の方々は、九蓮寺から南の範囲を「市場」、北の範囲を「茶屋」と当時の名称で呼んでいる。市役所で古い地名を調べてもらったが、「浦屋敷」や「只越」「坂東」「寺谷」「焼野」は残っているが、「市場」と「茶屋」は残っていなかった。ただし大河内と桂瀬の「茶屋」は現在でも字名が残っており、当時この辺りは茶屋がたくさん営まれていたことが想像できる。

北面包囲陣

 さて、「下矢津民家から城の大手に至る地帯」という記述に少々疑問を感じたのは、山田はおそらく下矢津地区の北端、現在大河内小学校が建つ辺りから大手口にかけてをイメージしたのだろうが、もう少し北に位置する坂東地区の方がまとまった集落になっていたのではなかろうかと想像する。信長の焼き討ちにあった範囲が市場の宿と坂東に建っていた九蓮寺であったことを考慮すると、むしろ坂東から市場にかけて布陣した方が合理的だと考える。「城の周囲に鹿垣を二重・三重に巡らし」という『信長公記』の記述は大手口を中心に設置し、城内からのゲリラ戦を用心してのことと考える。
 少し心もとないことは、はたして矢津川を挟んで布陣することがあったのだろうかということである。市場の北側の茶屋までの範囲であれば、北面武士を全員配備させることも可能であったかもしれない。信長勢五万ともいわれる兵をどのような配分で布陣させたかは分からないが、東西南北の陣取り想定地を検証したところ、千人・二千人と配備するだけでもかなり窮屈な状況であったと想像できる。
 また、総数に北畠旧臣の木造、長野、工藤、関ら各氏の兵数が含まれているかどうかも分からないが、地図を眺めていると、大河内城周辺で大人数を配置できる場所は、山村から丹生寺にかけての平地しかない。数千単位の兵を、大河内城周辺、桂瀬山周辺の各所に配置していたと考えても、五万人という兵を地図上に配置することは現実的なことではないように思えてくる。五万という数字をどこまで信用してよいものか悩ましくなる。

(北面包囲陣)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

●『信長公記』
  斎藤新五、坂井右近、蜂屋伯耆、簗田(つくだ)彌次右衛門、中條将監、磯野丹波、中條又兵衛、
●『現代語訳 信長公記』
  斎藤新五、坂井政尚、蜂屋伯耆、簗田弥次右衛門、中条家忠、磯野員昌、中条又兵衛
●『信長記』
  斎藤新五郎、坂井右近大夫、蜂屋兵庫頭、簗田彌次右衛門、中条将監、礒野丹波守
●『織田軍記』
  齋藤新五郎、坂井右近将監、蜂屋兵庫頭、簗田彌次右衛門、中條又兵衛、礒野丹波守
●『南勢大河内城史』
  斎藤新五郎、坂井右近大夫、蜂屋兵庫守、梁田彌次右衛門尉、中条将監、同又兵衛、磯野丹波守
●『三重・国盗り物語』
  斎藤新五、坂井右近、蜂屋伯耆、梁的弥次右衛門、中条将監、磯野丹波、中条又兵衛

(九蓮寺変遷図)///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

  九蓮寺の移築とともに寺を取り巻く集落も移動したという。

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◆ 信長本陣

 九蓮寺から北へ目線を移動すると桂瀬山が見える。信長が陣を布いた場所をこの桂瀬山とする説は、『信長公記』の「東の山に御陣を居させられ」という記述を判読してのことと思われる。『織田軍記』では、「東方の桂瀬山と云ふ所に御本陣をすゑられたり」と「桂瀬山」と明言している。さらに『勢州軍記』では「本陣は東方桂瀬山なり。又、只恋山と号すと云々。」と記されているが、「只恋山」という山は存在せず、「只越山」の間違いと山田勘蔵は指摘しているが、桂瀬山と只越山とは同じ山ではなく別の山である。
 ところが、いろいろ記録をあたっていると、桂瀬山には茶臼山という名称も存在することを知った。『大河内村史蹟名勝誌』によれば、茶臼山とは桂瀬山の最高峰部(122.9m)のことで、丘陵の北方に著しく隆起しており、桂瀬、丹生寺、立野の境界点にあたるという。そこには南北方向に約40m、幅約10m、高さ約6mほどの土塁が築かれ、東北部に連なるように半分程度の大きさの土塁の痕跡が確認でき、諸書で書かれている桂瀬山とはこの茶臼山に他ならないと断定している。
 また『飯南郡史』では、「松尾村丹生寺同立野及大河内村大字桂瀬との境界にあり」という記載で、『大河内村史蹟名勝誌』と同様の表記だが、『伊勢名勝志』には、「桂瀬村字勝負谷、船後、山神谷ノ邉ヲ云フ」と記載されており、今となっては特定しずらい地名となっており判然としない。そこで役所へ行って地籍図を見せてもらうと、「勝負谷」「舟後」の小字名を見つけることができた。これでほぼ茶臼山と呼ばれる場所を特定することができた。
 茶臼山のすぐ脇には北畠氏
の立野城跡があるが、『飯南郡史』には「松尾村立野字椋谷の山上にあり」と書かれており、信長本陣の場所とは異なることを示している。しかし境界点と椋谷山上は近接しており、信長は立野城も含めて大きな本陣を築いたのではないかと考察する。南北方向に40mもの土塁を山上に築くには隣接する立野城を取り込まねば合理的に説明がつかないと考える所以である。
 地元の郷土史家の山際さんに信長本陣のお話しをうかがうと、少年時代にはその遺構がまだ残っており『大河内村史蹟名勝誌』に書かれている土塁二箇所を確認されているという。現在では採石のために崩されてしまい跡形も残っていないのが残念でならない。
 桂瀬山の南嶺には
「信長腰掛石」と呼ばれる巨石がある。直径は1.5mほどで巨石の下は岩窟のようになっている。この石に信長が腰掛けたと伝わるもので、明治時代までは里人は石を踏むことなくしめ縄を張って尊崇していたという。しかしこの地は古くから地元豪族の立野氏が治めており、周辺には原型の認められる古墳が存在することから、この巨石も石郭の一部ではないかという見解もある。

茶臼山地図-2


<参考>

『伊勢国司記略』 齋藤徳蔵
『勢陽雑記』 山中為綱
『南勢雑記』 常誉摂門
『勢州軍記 上』 三ツ村健吉(註訳)
『北畠史の研究』 大西源一
『伊勢国司とその時代』 北畠顕能公六百年祭奉賛会
『北畠氏の哀史』 服部哲雄
『松阪市史 第三巻 史料編』
『大河内の歴史』 大河内地区自治会連合会
『南勢大河内城史』 山田勘蔵
『勢陽五鈴遺響 4』 安岡親毅
『伊勢名勝志』 宮内黙蔵
『飯南郡史』 中村正三
『大河内村史蹟名勝誌』 国立国会図書館デジタルコレクション
『史籍集覧 13(義秋公方記)』 国立国会図書館デジタルコレクション

『史籍集覧 13(伊勢國司傳記)』 国立国会図書館デジタルコレクション
『史籍集覧 19(信長公記)』 国立国会図書館デジタルコレクション

『史籍集覧 25(勢州兵亂記)』 国立国会図書館デジタルコレクション
『群書類従 第13輯(細川両家記)』 国立国会図書館デジタルコレクション
『群書類従 第13輯(勢州四家記)』 国立国会図書館デジタルコレクション
『信長記』 国立国会図書館デジタルコレクション
『信長公記』 国立国会図書館デジタルコレクション

『通俗日本全史 7(織田軍記)』 国立国会図書館デジタルコレクション

『多聞院日記 第2巻』 国立国会図書館デジタルコレクション
『現代語訳 信長公記』 太田牛一、中川太古(訳)
『地域史誌からみた北畠・蒲生戦記』 山田一生
『三重 国盗り物語 総集編』 伊勢新聞社
『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』 谷口克広
『北畠氏関係資料 –記録編–』 三重県
『織田信長家臣人名辞典』 谷口克広
『戦国武将合戦事典』 峯岸純夫・片桐昭彦
信長公記」 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
戦国南伊勢国人名事典」 http://takatoshi24.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

大河内氏」 
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kita_okoti.html
『勢州軍記』著者 神戸良政について」 https://ncode.syosetu.com/n6314ey/15/

居館主は坂内氏か-多気町笠木館跡について」

 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=325


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