2017年6月
天正四年(1576年)、伊勢国司八世の北畠具教が三瀬で討たれ、事実上の滅亡を機に家臣であった森本飛騨守俊貞(彦一郎)は旧領である飯高郡下栃川村に帰り、一宇を建てて称念寺と号し北畠氏一族の菩提を弔った。森本氏は伊勢国司初世北畠顕能の子で木造家の始祖顕俊の庶子俊重が一志郡森本を領地し、多気城(霧山城)の支城として森本城を築城し森本飛騨守と称したことに始まる。その後、代々飛騨守を世襲し俊貞は七代目に当たる。
三瀬の変の翌年、森本から下栃川村へ移り住み、有間野合戦に参戦したと思われる(『下栃川村称念寺檀家史』には子の喜久が参戦と記されている)。森本家・大西家系譜には、「弔国司一族菩提終成百姓」と書かれており、移住後すぐに武士を捨てて百姓になったことが判る。そのため子の義久は飛騨守を名乗っておらず、「川俣谷弓矢之事」にも浄光入道・森本喜久と署名している。
「川俣谷弓矢之事」を入手した森本嘉一さんは、喜久の次男・甚太夫の家系で森本姓を受け継ぎ、『下栃川村称念寺檀家史』を書いた大西曻さんは、喜久の長男・後胤の長男・又助の家系で大西姓を受け継いで今日に至っている。
現在の称念寺から少し南東方向へ進んだ山麓に称念寺跡とされる場所がある。家屋が2軒あるが、1軒は廃屋となって道を隔てた北側に新しい住宅を建てている。道路からは雑草が生い茂りとても所在を突き止められそうにないため、森本飛騨守の子孫である森本茂樹さんに案内を請うた。
その場所には小さな祠が祀られており、「アンノオク」と呼ばれていたそうだ。「アンノオク」とは「庵の奥」で、廃屋となった住宅地にあったかもしれない庵の奥の山麓に位置するため、そのように呼ばれたことが考えられる。また、栃川の長老によれば、尼さんが住んでいたという話も残されている。
現在は林業用の道が作られており、祠は道の奥側の山の斜面に祀られている。茂樹さんのおばあさんは毎日のようにこの祠に手を合わせていらしたそうである。また、ここからさらに東の山奥に「お滝不動」が祀られているが、こちらにも参っておられたようである。
今ではこの小さな祠が何なのか知る人もなく、先行きに対しての一抹の不安を感じる。俊禎が実際に建てた一宇はこの斜面ではなく、もう少し下がった平坦地にあったと想像される。その後、どういう経緯で現在地に移ったのか、手掛かりとなりそうな記録が存在する。
称念寺誌によれば、宝永元年(1704年)伝誉空外上人の開創で、称誉湧泉大徳の開山という。空外上人が現在の地に称念寺を移した人物なのであろうか。旧領主紀州藩より九升八合の免許地であったため、この頃より浄土宗となったと考えられている。
ひょっとすると北畠一族の菩提寺とは別に新たに寺院を建立したのではなかろうか。菩提寺を建てた俊貞が亡くなったのが寛永七年(1630年)、子の喜久が亡くなったのが寛永十六年(1639年)、その後65年後に空外上人が寺院を開創するのである。
新たな建立と推論したのは、現在の称念寺には北畠一族に関係する供養塔や関係資料が全く残されていないことにある。案外、菩提寺と称念寺は一時は並存し、空外上人の称念寺は栄えていくが、俊貞の菩提寺はいつのまにか忘れ去られ、供養塔は散逸しついには朽ち果ててしまったのではなかろうか。小さな祠の石は菩提寺建立当時に関係するものなのかもしれない。
現在の本堂は寺院様式特有の佇まいではなく、極めて一般民家に近い造りとなっている。再建の年は不明だが、明治24年までは草葺であったといい、現在は桟瓦葺である。本尊の阿弥陀如来立像の他、善導大師・円光大師像、仏涅槃図などが伝わる。
本堂の裏側へまわると、細長く最も高さのある喜久の墓石をはじめ、歴代僧侶の墓石が祀られている。中でも嘉永三年(1850年)に入寂された二十七世勝蓮社最誉瑞竜上人の墓石と役行者像は赤銅色に変色しており異彩を放っている。これは石の中に含まれる鉄成分がたまたま多いためとみられている。
さらに「盛誉桂香租林比丘尼」と刻まれた墓石に気がつく。『下栃川村称念寺檀家史』には典拠が不明であるが、桂香比丘尼についての掲載がある。
大河内村にて桂香比丘尼と申者死去之処金子之有候に付松阪御代官所より御預り之有候処当村池普請の砌金百両余備仕候処此比丘尼の金子にて天保五年(午年)一八三四年御取扱之砌此の金子当村方へ被下候に付其の菩提之為に天保六年未三月二十七日当寺境内に石碑御立申候其の砌表坂上口両方へ三尺四方高サ三尺之石垣致置人足森本甚太夫也桂香比丘尼命日村中斉講此年より始む念佛一会供養致すもの也
斉講膳十人前天保九年戌正月二十二日
下滝野にて求 恒誉代
大河内村(現松阪市大河内町)で桂香比丘尼という方が亡くなったが、お金を残されていたので松坂の代官所で預かってもらったところ、池普請に伴い金百両を拠出いただくこととなり、このお金を栃川村へくださった。
その菩提を弔うために天保六年に境内に石碑を建てた。その石碑は表坂上口両方へ約114センチ四方で高さ約114センチの石垣を造って建立した。命日には村中が斉講(おしる)をこの年から始め、念仏一会供養することとなった。(要約)
斎講とは一般的には「さいこう」と読まれるが、地域によっては「ときこう」「とっこう」と呼ぶそうで、皆が集まり和尚さんに先祖供養を行ってもらい、同時に年忌も執り行う仏事であるとともに、稲刈りが終わった後に皆で百姓仕事を休む日でもある。また、皆で集まって食事をとるという意味も含まれており、仏事後に懇親会が行われる。
現在では境内が整備されたようで、桂香比丘尼の墓石が当初はどこに祀られていたのか、石垣の痕跡も無く判らなくなっているが、歴代住持の墓石と並んで祀られていて満足されているのではなかろうか。
(森本飛騨守)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
初世森本飛騨守俊氏は伊勢国司北畠顕能の第二子である木造顕俊の庶子という。『南西雑記』の系譜によれば、俊氏は顕俊の子・俊通の子のように書かれているが、『伊勢国司記略』の注記には、俊通には子供なくして早世したため(『尊卑分脈』)、俊氏は俊通の弟であるとしている。
一志郡森本を領知して飛騨守と称す。初め俊重と名乗っていたが、後に改名して俊氏となる。早くから重臣として重用され、矢下(やおろし)、片穂(かたほ)との三家は「三家士」と呼ばれていた。その子の二世俊重も飛騨守を称し、士15人、兵50人持ちの分限であった。
三世飛騨守俊三の弟・俊親は又次郎と称して弓術の達人である。俊三の嫡子・俊英は左京と称して18歳で亡くなったため、次男の俊成が飛騨守を称し四世を継ぐ。その子・俊信が五世飛騨守、女子は坂内氏の内室となる。俊信の子は国司から偏諱を賜り具俊と名乗る。永禄十二年(1569年)の阿坂城攻防戦で討ち死にする。別説には、天正十二年(1584年)の松ヶ島城攻防戦で討ち死にしたとあるが、子の俊貞の古記録を検証すれば、松ヶ島城ではなく阿坂城の攻防戦での討ち死にが妥当と判断される。
具俊の子・俊貞は彦一郎と称して七世飛騨守を継ぐ。天正四年(1576年)の三瀬の変で八世北畠具教が討たれると、旧領地の飯高郡下栃川村へ隠棲し、入道して鏡誉と号し菩提寺を建てる。その子の喜久俊次からは百姓の身分となり菩提寺を守る。次男の甚太夫の家系が森本家を名乗り藤五郎を襲名、長男の後胤の子・又助の家系が大西家を名乗り又七を襲名し今日に至る。
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本堂の向かい側には「井上又兵衛君高恩不忘之碑」がある。この碑はもともと墓地の入り口に建てられていたのだが、昭和53年の墓地改修に伴い門前に移された。滝ノ谷の入り口にある山が元は井上氏の所有で、この山を栃川の宮山に寄付してもらった恩を忘れないようにとこの碑が建立された。
井上氏からは建立の御礼にと、唐鍬を一丁ずつ栃川の家々に配られた。明治38年4月25日に堀内井上銀行が宮前村に設立されたこの当時は、井上氏は堀内氏と並ぶ大資産家であったという。
現在の称念寺は無住となってしまい、仏事については極楽寺の和尚さんが執り行われる。マップ調査の際に堂内に上がらせていただき、檀家全景写真を拝見した。昭和45年10月に撮影されたものだが、現在よりも少し耕作地が多いようにも感じる。飯南町・飯高町は限界集落地であり、土地を受け継ぐ家も年を重ねて減少を続けている。
現在残っているお宅も高齢者が多くなり、先行きが心細い状況に歯止めが効かない。有間野がある飯南町も隣町の飯高町も自然がたくさん残り作物も美味しいが、悠久の歴史の痕跡が数多ある文化と自然の豊かな地域である。少しでもこの素晴らしさを町外の人たちに知っていただきたいと切望する。
<参考>
『飯南町史』
『伊勢国司記略』齋藤德藏
『南勢雑記』常誉摂門
『三重・国盗り物語』伊勢新聞社
『下栃川村称念寺檀家史』大西曻
『写真・図解 日本の仏像』薬師寺君子