2017年3月、7月
<医王寺と宝篋印塔>
向粥見の県道745号片野飯高線沿いに医王寺は建つ。山門といい本堂といい風格があり、さぞ古い建築なのかと思いきや、本堂は明治20年の再建であるようだ。山門については明記されてなく不明だが、荒廃後の再建ということを考慮すると同時期の再建ではないかと考えられる。
山門の南側には小さな池があり緑濃い時期には美しい景観が鑑賞できるのだろう。春になると、さらに南側に広がる丘に大きな桜の木が美しい花を開き、地元民が集う知られざる名所となる。医王寺に関する資料は皆無に等しく、隣地に建つ正東寺を訪ね、住職からは伝承をはじめいろんな話しを教えていただくことができた。
境内へのアプローチ部にはガードレールが設置されており、転落防止とはいえ興ざめの感は否めない。アプローチを進んでいくと一間半四方の山門が建つと『飯南町史』に書かれているが、よく見ると四方ではない。計測してみると、奥行きは1.45間だが、間口は2.13間で、誰が見ても奥行きよりも間口の方が広く見える。一見すると古風に見えるが、わずかに残された礎石はコンクートの基礎に飲み込まれ、土台を回した上には丸柱はなく、斗栱もない、屋根の構造は寺院ではなく民家となってしまった。
山門は二層構造からもわかるように鐘楼であった。かろうじて格子の間から吊り元の金具が見えるが、鐘は戦時体制下に供出され、戦後に鋳つぶされなかったので引き取りに来るよう通知があったが、当時の住職は引き取りに行かなかったという。
現在の住職は、飯南高校の先生をされており、阿坂から通われているそうである。引き取りに行かなかった住職は2代前にあたり、世間離れした贅沢好きなご夫婦であったそうだ。魚といえば、名古屋から上物のマグロを取り寄せていたという。
医王寺は檀家を持たないものの、黄檗宗のお寺は財力を持っていたため、生活するに困ることはなかった。周辺の土地をはじめ、山も含めて見渡す限りの土地は医王寺の所有であったという。元は農民たちの所有だったのが、病気等で急な現金が必要になると、医王寺に借金をして対処していたのだが、返済ができなくなるとその土地を手放さざるを得なく、積み重なった結果広大な土地が医王寺所有となったらしい。
そんな広大な土地も戦後のGHQの指示による農地改革で、大半が小作人に売り渡されたという。そんな経緯での収入が先先代の住職あたりで好き放題に使われていたと思われる。
山門をくぐると右側に境内が広がる。中心に石柱が立っているが、かつてはこの石柱に幟を立て盆踊りを楽しんだという。また古来から医王寺のある本郷地区では「かんこ踊り(昭和42年三重県無形文化財指定)」が天王社に奉納されてきたのだが、近年ではこの境内で奉納されてきた。しかし人口減少に伴い、毎年の実施が困難となる中、4年に1度の間隔で継続してきたのだが、現在では休止となっており復活は危ぶまれている。
昭和の時代まで境内の北側には庫裡が建っており、本堂とは回廊で繋がっていたという。現在も本堂の北側斜面には石垣が遺っており、当時の名残を思い知ることができる。
山門の左側には小さな庭園が見られるが、手入れが行き届いておらず、枯山水のようになった石の造形は崩壊した石垣の跡のようにも感じられる。ここにはかつて綺麗な水が流れており、大きな鯉が泳いでいたのだという。本堂の南側の側溝にも鯉が泳いでいたそうだ。さらに境内の東側にも小さな池があるのだが、ここにすら鯉が泳いでいたのだった。現状からはまったく想像もつかない話しである。
境内の南側には小さな池があるのだが、この辺りに寺守りの小屋が建っていたという。住職は何もしない方だったようなので、日々の清掃や維持管理は寺守りが行なっていた。池には小さな島があり、弁天さんが祀られていた。老朽激しく、やはり昭和の時代に廃祀されてしまった。昭和の時代まではお寺として立派な佇まいが維持されていたのに、わずか30年ほどで廃屋のような雰囲気にまで落ちぶれてしまったのである。
正面に建つ本堂は悠久の歴史を感じさせるほど雰囲気が出ているるのだが、とても明治半ばの再建とは思えないほど古びている。板戸が固く閉められており堂内を伺うことはできないが、本尊の薬師如来立像は鎌倉期の作と考えれており、毘沙門天立像、日光菩薩立像共に室町期の作という。
『飯南郡史』によれば、寺伝に延徳元年(1489年)に伊勢国司北畠具教が(大河内城合戦の始末として)多気御所から三瀬へ遷る際に、向粥見の安城山峰に草創し後に現在地に移ると書かれているが、具教は享禄元年(1528年)の生まれで記載と史実に齟齬が生じ、この寺伝は信用できないとしている。また、『飯南町史』では、宝永六年(1709年)の医王寺二世洞虚和尚の記に、もと向粥見安城山にあって中世に北畠国司の外護(げご:権力や財力で仏教を保護)を受け草創した。と北畠氏との関わりを濁している。
『飯南郡史』では年代の齟齬があるものの、北畠氏との直接的関わりは明記されておらず、『飯南町史』では国司の外護と明記されており、2誌の記載内容は異なっている。もし三瀬御所蟄居時に外護があったとすると、具教が三瀬御所に隠居したのは永禄十二年(1569年)のこととなり、北畠九代目の具房も坂内御所へ蟄居となっていた。
川俣谷を治めていたのは、富永御所の鳥屋尾石見守満栄であり、ここ本郷は北畠氏家臣で弓大将であった小坂治部大輔の本拠地であったので、正東寺や医王寺の再建に尽力した庄屋の小坂氏とは治部大輔の子孫のことである。現在も小坂氏の家系は続いており、本郷に住んでおられる。
川俣谷の端っこの山の中に小さなお寺を建てるために国司の外護があったとはにわかに信じがたい。神宮寺や近長谷寺のように北畠氏による寄進が記録されているお寺も存在するが、どれも由緒ある名刹ばかりである。穿った見方をすれば、国司の庇護を受けたということで少しでも由緒正しいお寺を主張したかったのであろうか。大河内城合戦から100年以上も後に書かれたことと、当時の記録書の状況を勘案すると、史実が歪んで記録されることもあろうかと思われる。それでも医王寺の住持が書き残した寺伝は貴重な資料である。
安城山に草創された寺は、二間四方の堂宇に丈三尺の薬師如来立像を安置し、向かって左に丈六尺の毘沙門天立像、左(ママ)に丈六尺の日光菩薩立像を安置され、諸人群参の霊場であったという。しかし北畠氏の滅亡とともに参詣人も途絶え、忘れられた寺となった。
元禄十二年(1699年)、梅嶺禅師が向粥見を遊化(ゆけ:諸方に出かけ教えを説く)された時、村人たちと協力して、安城山麓から奉遷し、四間四方の本堂を建立、黄檗宗として医王寺開山となる。このことから、開創不明の庵を安城山から奉遷し現在の地に堂宇を建立したのが医王寺の始まりだと考えられる。梅嶺禅師はほどなくして相可村の宝泉寺へ迎えられたため、代わって洞虚和尚が寺観を整え寺勢を高めていった。
ところが、文政五年(1821年)の十五世全牛和尚の頃から十八世折玄和尚の明治18年に到るまでにはほとんど無住に近くなり、荒廃の極みに達した。しかし明治20年、古市法林和尚を迎えたところ、献身的な努力により山林の経営を始め、独力で本堂を新築するなど寺門の復旧に努め、旧観に復して現在に至る。
医王寺には大変珍しい宝篋印塔が遺されている。宝篋印塔といえば石造が一般的だが、医王寺の塔は鉄製である。現在は屋根が掛けられているが『飯南町史』に掲載されている写真では露出で置かれていたようである。平成の時代になって掛けられたのであろうか。
鉄製宝篋印塔は、宝永三年(1706年)洞虚和尚の時代に、京都の村井氏の喜捨(きしゃ:寺社や貧者に施す)により、津の冶工である辻但馬掾藤原秀種の製作による。塔身部分には五智如来(5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来)に当てはめたもの)の種子(ह्रीः hrīḥ:フリーヒ)を蓮花座の上方に鋳出して、基礎部分には開山梅嶺老師の銘が陽鋳(ひい:陰刻の鋳型から浮き彫りになった鋳造品を作ること)されている。
安城山医王寺宝篋印塔銘並序
伊勢州多気郡向粥見之里有薬師精
舎山号安城寺名医王久缼主席元禄
年間里長小坂氏等延洞虚堂上座住持
擬欲勠力重興玆有京兆護法村井氏
光円居士範鉄鋳就宝篋印塔安厝於
寺中其志在福被人夫利済幽明可謂
発心広大故功徳亦無辺際者也洞上
座請銘銘曰
居士建塔普利有情莫道銕鋳七宝所
成諸仏法蔵都在此中見聞蒙益兼願
不従虚空消殞功徳無泯歴利賛歎莫
能述尽
臨済正伝三十四世
法王梅嶺雪老僧謹撰 (正法眼蔵朱方印)(梅嶺白方印)
京兆護法村井光円喜捨
当寺重興沙門洞虚徹立
本国津城辻但馬掾藤原秀種
宝永丙戌三年
宝篋印塔
四月初八日 立
製作者の秀種は津の釜屋町にいた藤堂藩お抱えの鋳物師で、その祖辻越後守家種は、京都の方広寺鐘の脇棟梁として名高く、同家は伊勢国鋳物師の中でも優れた製品を多く作り出した。
この宝篋印塔には悲しい伝承が残されているが、まずは一字一句そのまま以下に表記する。
向粥見本郷中山はもと紀州藩田丸領に属し、向粥見の中心地として昔から栄えた。庄屋小坂八蔵信隆家の祖は北畠家臣小坂兵部大輔で、代々地士であった。八蔵は物堅い信心深い人で、若いころ浄土宗の高僧日誉卓弁上人と親しく、慶安三年(一六五〇)この地へ安城山正東寺を建てた。その後元禄十二年(一六九九)相可法泉寺開山梅嶺雪和尚は当地に草庵を営み医王寺を開いたので、小坂氏も本堂建立の悲願を立て広く浄財を募った。たまたまそのころこの辺は大干ばつで人々は非常に悩んだ。しかも中山は昔から水利が悪く、ただ安城山の谷川を利用するだけであったから、その苦しみは一層甚だしかった。庄屋小坂氏はさっそく村人と計り、ただちに着工したが予想外の難工事のため多額の費用を要した。そのため氏の私財はもちろん、医王寺建立の資金もことごとく使い果たしてしまった。氏も老年のことであり、思い余って京都の知人村井氏に懇願してその助力を得た。なお、浄財の喜捨をも受けたので、本堂建立の代わりとしてこの塔を建てせめてもの詫びのしるしとした。その後程なく心の呵責に堪え兼ねた上人の亡き骸が安城池に浮かび、しかも口には剃刀がくわえられていたという。
なぜ上人が入水せねばならなかったのであろう。上の文章を何度読んでも理解できない。医王寺本堂建立の浄財を使い果たしたのは八蔵たちで、本堂建立よりも生きていくための水利改修工事を優先した。本堂建立を切望したのは梅嶺雪和尚で、日誉上人の正東寺はすでに出来上がっていた。梅嶺雪和尚は村人たちと本堂建立を果たした後、相可の法泉寺へ迎えられている。入水されたのは誰なのだろうか。
正東寺の住職の話によると、入水されたのは二世洞虚徹上人で、住職が幼少期の時には、池に入ると上人の無念さのためか、カミソリで切られたような傷がつくと聞かされていたという。現在は土で埋められてしまった池も当時は深かったと言われるが、地元の古老に同じような伝承を訊ねてみると、寺の脇の池では浅くて死ねない。おそらく安城池ではなかろうかという意見であった。
<安城山>
さて、安城池や安城山とはどこなのであろうか。正東寺住職に教えていただくと、医王寺前の道が南へと延びていくが、その先の山一帯が安城山と呼ばれているのだという。安城池は山のほとりにある。
茶畑の中をしばらく山に向かって歩いていくと、左側の視界が開け烏岳がよく見える。山裾を右に回ったところで、右側法面に祠が祀られている。地元古老の話しでは水神さんが祀られているという。法面をよく観察すると人が歩いた痕跡が見受けられる。上へと登っていくと、そこにも祠や仏像が祀られている。これは浅間さんだという。祠の左側の像は表面が摩耗しているものの、姿形から役行者とみられる。神木の先には御幣が取り付けられている。下からは見えないが、茶畑からわずかに山上に見ることができる。
ここが安城山なのだと思われるが、住職も古老も具体的に示されることはなかった。漠然と安城山を捉えることはできても、「ここ」が安城山であるとは言い難いそうである。医王寺が草庵として開かれた場所を突き止めることは不可能だが、少しでも往時の雰囲気を味わいたいと歩いてみたものの、今となってはどこにでもある山の中でしかない。
水神さまの先に貯水池があり、これが安城池だという。大きな土手が作られ、東端には堰も設けられている。有間野の貯水池同様に、自然に発生した池を農業用水として利用するために近代になって貯水池として整備されたと思われる。そのため、現在は広くて深い池だが、本来の大きさはどうであっただろうか。地形を読み取る力のある人は想像できるかもしれないが、凡人にはまったく想像できない。
正東寺住職の話しでは、池の右側を進むと相津地区まで続く山道で、舗装された現在は途中で行き止まりとなっている。池の左側を進むと、旧家が建っていた石垣の残骸が見られると言われたが、小山となっており散策を断念した。
山深い奥にあった医王寺が廃れたため、麓へ奉遷されたのだが、その距離は思ったほど遠くはないと感じた。
<参考>
『飯南町史』
『飯南郡史』
『伊勢国士とその時代』北畠顕能公六百年祭奉賛会
『社寺建築の工法』佐藤日出男
『寺社建築の鑑賞基礎知識』濱田正士
松阪市文化情報(宝篋印塔及び納入品13件) https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/houkyoinnto.html